歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹 ①

司馬懿は前漢宣帝になぞらえられた。

司馬懿の諡号は宣帝。
司馬懿死没の時点で、宣帝とは前漢の宣帝のみである。
前漢の宣帝といえば、
儒家の学問を修めながら、法家主義も用いて政治を行った。
以下のエピソードが有名である。
儒家を勧めてきた息子で太子である、のちの元帝に対しての
言葉である。
 
漢書および十八史略から、前漢宣帝の言葉を下記に引用する。
「宣帝作色曰、
漢家自有制度。本以覇王道雜之。
奈何純任教、用周政乎。
且俗儒不達時宜、好是古非今、使人眩於名實不知所守。
何足委任。
乃歎曰、亂我家者太子也。」
 
儒家を進めてきた嫡男、後の元帝に対しての回答である。
 
下記に意訳する。
宣帝は顔色を変えて、
「我が漢家には、漢家のやり方がある。
それは、覇道と王道を交えたものだ。
どうして儒教を使う、古代の周のやり方を用いる必要があるのか。
かつ、俗儒は時勢に合わず、古きを好んで現代を否定する。
人を惑わす。名目と実態に関して、
何を守るべきなのかを理解していない。
どこが政治を任せるのに適しているのか。」
宣帝は嘆いて、
「我が漢家を乱すものは太子である」
 
上記のように前漢宣帝は儒家思想にシフトしすぎることはなく冷静であった。
 
 
疑獄で殺された、祖父に戾という悪諡を贈った。
戾太子(れいたいし。「戾」は「戻」ではない。意味は「悪逆な」「人倫に悖る」。
ここにも宣帝の人柄が滲み出る。祖父の戾太子に良い諡号を贈ることが子としての儒家の在り方。
しかしそれは武帝の判断を完全否定することになる。
そのため、祖父を戾太子として、悪諡にした。)
 
 
司馬懿のスタンスは、前漢宣帝と本来は同様だった。
覇道と王道、すなわち法家と儒家をうまく交えたものだった。
曹丕・曹叡の時代は、政府高官として、法家政治に則って、
官職を勤め上げた。しかし正始の音で世の中が弛緩すると、
自家の保身(悪い意味ではない)、
名族の支持、
を受けて、浮華の徒たち曹爽一派を排除した。
 
名族の支持を得る、名族を尊重するということは、
結局のところ儒家寄りにシフトすることになる。
 
儒家法家の両者を交えて、
司馬一族の中興の祖となった。
 
前漢宣帝は南匈奴の呼韓邪単于の降伏という大成果があった。
司馬懿も、遼東という異民族の地の、公孫淵討伐に成果があった。
 
 
 
前漢の宣帝は、
儒と法をうまくミックスさせ、政治を行う。
それをポリシーとした。
霍光により一度は滅亡の危機に瀕した漢室を復興させた。

司馬懿も同様に儒と法を融合させたと称えられた。