歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬懿=前漢宣帝=後漢光武帝=袁紹 ②

司馬懿の宣帝という諡号は非常に政治的メッセージが強い。

 

司馬懿は前漢宣帝になぞらえられた。

その宣帝は、光武帝から

中宗の廟号を追贈されている。

光武帝は前漢宣帝をベンチマークしている。

 

この追贈は大変異例なことだ。

 

光武帝自身は、王莽によって倒された漢王朝を再興させた。

光武帝が内外ともに中興の祖であることは、

全く疑いの余地がないであろう。

 

その光武帝が前漢の十一帝の中で、

宣帝を中宗として、わざわざ中興の祖であると崇めている。

 

創業の高祖、

守成の文帝、呂后一族族滅後復興させた名君、文帝も中興とも言える、

後の理想の皇帝像である武帝など

を差し置いての宣帝だ。

 

光武帝は前漢宣帝を理想とした。

・漢王朝を復興させた。

・民間出身の宣帝にシンパシーを覚えた。

・儒家・法家をうまくミックスさせて運営するという理念に共感

 

宣帝は、武帝後に断絶に危機にあった漢王朝を中興したとされる。

そもそも、宣帝の祖父戾太子一族の疑獄が原因だ。

武帝のこの大きなミスにより、戾太子一族は族滅に遭った。

当時乳飲み子の宣帝も処刑されるところを、

丙吉に救われ、民間で育てられた。

 

後断絶の危機に遭った漢王朝は、

霍光が丙吉の進言により宣帝を即位させる。

宣帝は霍光の没後、霍氏一族を滅亡させ、

皇帝として実権を取り戻している。

 

そうした由来は、

光武帝劉秀と類似している。

 

光武帝は、景帝の子孫とはいえ、

舂陵侯(しょうりょうこう)という小さな領主の三男であり、

(舂陵は襄陽の東方にあった)

皇位には程遠い存在で遭った。

 

民間とまでは言えないまでも、

かなり近い存在だったと言える。

 

それが王莽によって簒奪された漢王朝を復興させている。

 

光武帝は多々政策を実施しているが、

その中で特異なものの一つとして、

奴婢と良民の刑法上の平等を実施していることが挙げられる。

「天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。」

(この世では人であることが尊い。

奴隷だからといって殺人の罪を減らすことはできない。)

人口が争乱により6000万人から三分の一まで減ったことから、

農民の確保が重要だったとは言え、非常に民間寄りのスタンスが垣間見える。

また奴隷売買の規制も一部行なっている。

 

非常に現実主義でもある。

これは、光武帝の柿の言葉に象徴される。

吾理天下,亦欲以柔道行之。

(天下を統治する私のポリシーは、柔軟でありたいと思う。※意訳)

 

これは、宣帝のスタンスに類似している。

「宣帝作色曰、

漢家自有制度。本以覇王道雜之。」

のことだ。

うまく混ぜ合わせる。

政治的ポリシーも光武帝は宣帝に似ている。

もしくは、ベンチマークしていたのだろう。

 

魏は光武帝の後漢を滅ぼした。

それを宣帝司馬懿が再興する。

光武帝は、この諡号の通り、

武帝であり、

宣帝であろうとしたが、

司馬懿の孫司馬炎がその武帝となった。