歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬師から政治スタンスが儒家・寛容の政治へ変わる。

司馬師の政治スタンスは、

儒家寄りの寛容スタンスであると私は言い切る。

 

ここで、司馬懿の法家儒家の混在から、

儒家にシフトする。

 

理由は下記の三点。

・伊尹の古例から始まるのが象徴的。

・孫権死後の対呉戦の敗北に関して、

自身を罰する。

・皇帝曹芳を廃すも、本来想定していた

後継者は、50歳を過ぎた宗族。

 

とかく悪名高い司馬師。

実態は時代に融和的で急速な歴史の

進行を求めたとは思われない。

むしろ、自身の政権基盤を

維持しながらの現状維持にしか見えない。

しかし、時代は時代の大きな時代の変化を求めた。司馬師すらそれには

抗えなかった。

自己防衛の皇帝廃立は、輔弼に留まることを許さず、

続いて若年の皇帝を建てることを輿論は求めた。

それが魏の命運を潰えさせる。

 

 

「伊尹既に卒するも、伊陟事を嗣ぐ」

として、司馬懿の死後、嫡子司馬師はその権力を

事実上世襲した。

商の伊尹の古例にならったというのが大義名分だ。

 

司馬師当時43歳。

妻は羊徽瑜。名臣羊の同母姉である。

泰山羊氏。泰山郡の名族である。

末裔に侯景が梁の武帝を攻めた時の

建康の守将羊侃(ようかん)がいる。

 

撫軍大将軍に録尚書事を加冠される。

録尚書事は皇帝への上奏を全て取りまとめる。

つまり司馬師を通してしか皇帝権へアクセスできない。

皇帝は案件の差配が事実上できないので、

司馬師が差配することになる。

これを魏の実権を握っているという。

 

翌年252年には大将軍に任官される。

 

続いて同年4月に呉の孫権が崩御。

 

252年の冬に東興の戦いが起きる。

  魏末の洛陽から対呉戦線 地図


※「西晋の武帝司馬炎 福原哲郎 白帝社」から引用。


これは司馬師から仕掛けたのか、

諸葛恪から仕掛けたのか何ともわからない部分ではある。

これに続く翌年の合肥新城攻防戦が

河内司馬氏と瑯琊諸葛氏の最後の戦いである。

 

司馬師が諸葛誕らの提案で侵攻したが破れたと言われる。

しかし、10月に諸葛格が巣湖の近くの

東興に大規模な堤防と二つの城を築いている。

明らかに軍事施設であり、

これを魏としては叩く必要があったということであろう。

 

地図の通り、魏呉の事実上の国境線、長江から北に上った位置にあるのが巣湖。

 

国境侵犯とみなされてもやむを得ない。

 

諸葛格の挑発でもあったのだろう。

 

反対意見もあったが司馬師は出兵を

決断。

諸葛誕・胡遵(安定胡氏。司馬懿に付き従った武官。それで名を挙げ名族のひとつとなる。)・そして弟の司馬昭らに呉を

攻めさせる。

 

しかしながら諸葛格に大敗した。

 

それに対する、司馬師の有名な

エピソードだ。

 

司馬師は。

「私が諫言を聞かなかったために

こうした結果になった。

これは私の過失である。

遠征の諸将に何の罪があろうか。」

 

これは曹魏では全く異例のことだった。

敗戦の責任を取らされるのが、

魏のやり方。

諸将は降格や左遷などをされる。

それを司馬師はしなかった。

 

司馬師は、政治スタンスを変えたのだ。

 

これで人々は自らその責任を負おうとした

司馬師の度量に感服したとなる。

 

これが司馬氏の政治なのである。

象徴的なエピソードである。

寛容な政治を行うのが司馬師のスタンスであった。

 

見方を変えれば、

例えば南宋の胡三省は、

偽善だと痛烈に批判している。

この言動は、自己の権力を固めようとしたものだ。国を盗もうとするものだとのことだ。

 

最終的に司馬師は皇帝曹芳を廃す。

 

しかしだったら、

廃替した皇帝を、50歳以上の曹據(そうきょ)を候補に挙げる必要はない。

 

成人しただけでも扱いにくいと歴史は言うのに、

このような初老に差し掛かっている者を

わざわざ選ぶなど、前例がないぐらいだ。

 

司馬師は、輔弼の線を模索したのに、

これに反対した郭太后が曹魏滅亡への道を

早めた。