歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

魏末司馬氏政権のときの三たび揚州の乱①=251年王凌の乱=

 

正始政変以後、

251年の王凌の乱

255年の毌丘倹・文欽の乱

257年の諸葛誕の乱

 

と三つ続く。

 

これは、司馬懿が揚州のみ直接軍勢を率いたことのなかったためだ。

荊州(宛・襄陽方面)・雍州(長安方面)は司馬懿がそれぞれの諸軍事に

任官されていたので、司馬懿の息がかかっている。

悪い言い方だが、わかりやすく言うとこうだ。

 

しかし揚州は魏建国当初は、宗族の曹休が任じられていた。

その後は、満寵、王凌、、諸葛誕、毌丘倹、再任された諸葛誕という

流れだ。

 

<揚州諸軍事 在任者 時系列>

曹休:220~228年

満寵:228~238年

王凌:240~251

諸葛誕:251~252年

毌丘倹:252~255年

諸葛誕:255~257年

 

満寵は242年に死去している。

魏の揚州戦線を鉄壁にした功労者だ。

子の満偉は司馬氏から妻を娶っていたようだ。なので、司馬氏の派閥に属する。

満寵の後王凌から三人はことごとく反乱を起こしている。

 

目利きがないともいえるが、

もしかしたら、反乱を起こさせたとも言えなくもない。

 

まずは、王凌の乱だ。

249年の正始政変(高平陵の変)を受けて、

2年後に乱を起こす。

王凌は、生年172年で、没年は252年となる。

司馬懿よりも7歳も年上で、乱を起こす252年には80歳の高齢である。

 

王凌は、あの王允の甥である。

王允は、呂布を唆して董卓を殺害したあの王允である。

この王允の一族が太原王氏である。

秦の名将王翦の末裔だ。少なくとも今後唐末まで代表的な名族として、

歴史上に現れる。

 

儒家を信奉する代表的名族の王凌は、

成年に達した魏帝曹芳に権限を返さず、

そのまま権限を掌握したままの司馬懿に対しての反乱だった。

曹操の子楚王曹彪を擁して反乱を図ったが、

司馬懿に察知され、降伏する。

洛陽に移送される途中、司馬懿が誅殺の意向を察知したため、

王凌は道中で服毒自殺をした。

 

これを機に魏の皇族は鄴に集められ、

軟禁状態に置かれる。

 

魏の宗族が関わった司馬氏反抗のアクションは、

これだけだ。

魏の宗族に力を与えない、

官職につけないという曹丕の遺訓は厳密に守られた。

そして、皮肉にも皇帝に力がなくなった時、

皇帝を守ってくれるものは誰一人いなかった。

王凌が自身の信条に基づいて、司馬氏に反乱したのみ。

 

王允に続き、王凌という名臣を輩出した太原王氏はこれにて、

名族としてのポジションを確定させる。

 

80歳という高齢で、魏への忠節を尽くした王凌を誅殺し、

司馬懿は同年251年8月に死去する。

数え年73歳であった。

 

司馬懿は最後に王凌のスタンスを時代錯誤だとして、

歴史から抹殺し、この後の歴史の流れを確定させた。

 

司馬氏への流れは止まらない。