歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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毌丘倹、司馬師だけを弾劾。==魏末司馬氏政権のときの三たび揚州の乱②==

255年に揚州諸軍事の毌丘倹が寿春で反乱を起こす。

この毌丘倹の反乱は、
本来当然のものである。

司馬師は霍光・梁冀・董卓と同じことをしたのだ。

司馬師の行為に対する、
毌丘倹の反対は本来当然のことである。
しかし、時代が変わりつつある。
皇帝廃替が許されるのだ。

なお、毌丘倹は司馬師の父司馬懿の遼東遠征に
従軍している。
広い意味では
安定胡氏と同様、司馬氏の与党なのだ。
王凌の後任は、諸葛誕だった。
しかし司馬師が司馬懿の死後を継ぎ、
東興の戦いで呉に敗れたため、
司馬師は諸葛誕から毌丘倹に揚州諸軍事を変えた。
姻戚である諸葛誕ほどではないが、
毌丘倹も司馬氏与党として信頼できたのだ。

しかし、毌丘倹は文欽とともに反乱を起こした。
信頼に足るからこそ、毌丘倹は反乱を起こしたともいえる。
毌丘倹は郭太后の詔勅を偽作する。
また司馬師を弾劾した上奏を奉る。
それは司馬師に対しての弾劾であった。司馬氏ではないことが
大きなポイントだ。

司馬懿は、「忠正にして、社稷に大勲有り」として
賞賛している。
司馬昭は、司馬師に代わるべきだと主張、
司馬孚は忠孝小心、
司馬望は忠公親事、
みなよろしく親寵し、要職を受けるべきと
評価している。(西晋の武帝 司馬炎 福原哲郎氏 から引用)

つまり、皇帝の廃替をした司馬師は悪臣だ。
排除すべきだというわかりやすいものだ。

皇帝の廃替を逡巡していた司馬師。
司馬師の、もう一方の心情として毌丘倹の
主張もわからなくもないのだ。

だからこそ、眼の手術の直後にも関わらず、
司馬師自身が総帥として遠征したのだ。

心情がわかるからこそ、
同調する者の気持ちもわかる。

思想の転向したのは、
名族の方なのだ。


司馬師にとって、
正念場であった。

洛陽の留守を司馬昭に任せ、
寿春に遠征、
毌丘倹を覆滅した。
255年の正月に挙兵、次の閏正月21日には毌丘倹が
草叢に潜んでいたところを兵士が射殺した。遠征は
一月ちょっとで完遂されたのである。
そしてその7日後に司馬師は
世を去る。

司馬師は遠征の最中、
目が飛び出てしまったとも言われる。
それを蒲団を被って諸将にわからないようにして、
指揮をとったとされる。

処罰は、毌丘倹の族滅と、
首謀者10数名の処刑、ほか数百人の
毌丘倹の与党は赦免した。

司馬師自身は、非常に体調の悪い中での
判断だった。自身の病状を悪化させた遠征であったにも関わらずだ。

魏とは異なる寛容の政治を貫いた。

この遠征に賈充は参軍として従軍していた。

許昌まで戻ると、賈充に全軍を監督させ、
洛陽にいる司馬昭を呼び寄せた。
後を託し、司馬師の死去。繰り返すが、
毌丘倹の死後7日後のことである。

毌丘倹の目的は達成されたとも言える。