歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬昭は人が良かった。

司馬昭は、私は人が好い人物だったと考える。

 

理由は下記三点である。

①諸葛誕の乱で、賈充に騙される。

②曹髦を賈充が弑逆しても、賈充を罰することができない。

陳泰に慌てて相談し賈充を殺せと言われたにもかかわらずだ。

③蜀討伐を鍾会に勧められ、実行し果たすも、

鍾会に裏切られる。

 

実は勝手し放題されているのが司馬昭である。

振り回され続けたのが司馬昭だ。

 

司馬昭は人が良かったのだろう。

人には嫌われず、

勝手に曹髦に逆恨みされただけだ。

 

司馬師のような鋭さもない。

 

それは当然だ。

厳しい教えの司馬氏。

厳しければ厳しいほど

弟として兄を確実に助けろとなる。

いきなりトップになれるわけない。

群臣最高峰なのだ。

 

ビジョンもない。

 

断りきれない、優柔不断の貴公子という方が

司馬昭のイメージにあう。

 

誰かの下、副将の方が輝けるタイプだったのではないか。

 

 

緩急交えた司馬懿。

勇猛果敢で冷静沈着な司馬師。

 

しかし司馬昭は人が良かった。

 

だから禅譲も良いとなればトントン拍子に

進んでしまう。

 

興勢の役だって、

曹爽や夏侯玄に

嫌味の一つも言われただろう。

司馬懿の反対を押し通しての作戦だ。

司馬昭に対して、「父君(司馬懿)は大層反対したよね、

あなたは反対して勝手に軍から離脱してはいけないよ」、

ぐらいのことは言われてもおかしくはない。

 

大罪になるが、それでも軍から逃げ出した事例などたくさんある。

それを逃げずに従軍できる力が司馬昭にはある。

 

司馬懿と兄司馬朗の関係とは違う。

 

元々二人は、別々に採用された。

司馬師と司馬昭は、

基本的に父のもとで朝廷に仕えている。

司馬懿は司馬師以外にわざわざもう一人大将を育てない。

 

司馬懿自身の死後の揉め事になるようなことは、

司馬懿自身の才覚としてもしなかっただろう。

また儒教の観念上、長幼の序という考え方は大きい。

 

厳しい儒家の教えをする司馬氏では、

兄が弟を立てるというのは当然のことである。

 

結局、既存概念に囚われない、賈充の荒々しい、

やんちゃな行動が、人の好い司馬昭の背中を押すことになった。

 

皇帝曹髦の弑逆が、司馬昭への禅譲の流れを確定したのである。