歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈充のしたこと~時系列~

257年諸葛誕の乱を引き起こす。

この乱が賈充が引き起こした詳細な事情に関しては

司馬昭すらも知らなかったかもしれない。

 

司馬昭の息子司馬攸に娘を嫁がせる。

舅となる。司馬昭と姻戚関係になる。

 

260年曹髦弑逆

 

263年鍾会の乱

長安まで進駐する。

もう司馬昭は、軍を率いない。

 

司馬昭は263年10月から11月の間に晋公・相国・九錫を受けている。

(蜀征伐(263年5月~11月)の最中)

264年3月には晋王に昇っている。(蜀征伐完遂後。鍾会の乱は、264年1月のこと

 

265年司馬昭急死。中風。脳関係の病気か。

 

265年魏晋革命成る。

司馬炎が皇帝となる。

 

この直前、賈充は、晋王の衛将軍。

魏と晋で、二重に朝廷があるので。注意。

なお、魏の衛将軍は、司馬攸である。

 

律令の整備を主導する。

泰始律令の制定に貢献したようだ。

 

270年に始まる鮮卑族の

禿髪樹機能の乱(279年まで続く。最終的には、文欽の子文鴦(ぶんおう)が鎮圧した

の討伐に賈充は派遣されそうになった。

荀勗(潁川荀氏)の助言で、賈充は、司馬炎の嫡男司馬衷に娘を嫁がせることになる。

賈充と、賈充の正妻・郭淮の姪との間の子で、後に賈皇后と呼ばれる。

 

司馬炎は、この賈充の申し出をいたく喜んだ。

 

司馬炎は自身の嫡男司馬衷よりも、同母弟司馬攸の方が、

後継者としてふさわしいという輿論を憂いていた。

司馬攸の舅は賈充である。

賈充は、司馬昭に対して、司馬攸よりも司馬炎が後継者にふさわしいと

提言をしてくれたとはいえ、今度も司馬炎・司馬衷の側に賈充が立ってくれるかどうか、

不安であった。

それが、賈充自ら、司馬衷の後見になると言ってくれたに等しい。

司馬炎は、まさに破顔したであろう。

賈充にそこまでの気持ちがなかったとしても。

 

賈充は、自身が苦手な軍事業務を行いたくなかった、

中央から離れて出鎮したくなかった、

という理由からだった。

 

 

 

280年

呉征伐に反対し続ける。

 

その後、

魯公に封じられる。

これは見逃されがちな事績だが、

賈充にはその気はないだろうが、

曹操が魏公になったことや、司馬昭が晋公になったのと同じ栄誉である。

 

282年

賈充死去。

賈充は、男子が夭逝していたので、

郭淮の姪との間の娘賈午の子、すなわち賈充にとっての外孫韓謐(漢初の韓王信の末裔)を

夭逝した嫡男の養子にして後継者にした。

異性の者を後継者にするという前代未聞のことをしたので、

大変批判された。司馬炎から異性の跡継ぎはいけないと諭されたが、

賈充の意志だとして、正妻の郭氏は司馬炎に許しを求めた。

司馬炎が賈充の功績を理由に特例として公に認めた。

 

賈充は焦っていた。

賈充は、権力欲があった。

賈充は気の小さい男であった。

とにかく失敗を恐れた。

賈充は恐妻家であった。

賈充は安心できる高位にいられればそれ以上求めるものはなかった。

自己保身を図る為であれば、手段を選ばなかった。