歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬昭は鍾会に賭けた=蜀漢への遠征=

 

司馬昭は後がなかった。

ここで王莽の道を取らないと、

最終的には自身もしくは子孫は滅びる。

そのぐらい、中国の思想というのはしっかりしている。

 

現時点で、司馬昭は、梁冀・董卓に並ぶ。

皇帝を弑逆している。梁冀・董卓は毒殺だが、

司馬昭は自身の命令ではないとはいえ、臣下が

満天下の下、近衛兵の前で、皇帝を弑逆している。

 

今は良いかもしれないが、

これを弾劾しようという動きは必ず来る。

 

梁冀は、桓帝により宦官を使って殺された。

董卓は、王允により呂布を使って殺された。

 

そうならないため、自身の行いの正当化のためには、

禅譲の成功、禅代の実現、革命の実施が不可欠である。

 

魏皇帝曹髦が賈充の指示で弑逆されたとき、

司馬昭は、49歳である。

 

この当時の中国は、

日本の戦国時代のように、人間50年というわけではない。

河内司馬氏は長寿の家系のようでもある。

 

父司馬懿 179-252年 享年73歳

叔父司馬孚 180-272年 享年92歳

祖父司馬防 149-219年 享年70歳

 

しかし、この当時の名族・支配階級の平均寿命の相場は、

大体60歳前後といったところだ。

 

あと10年で禅譲を成功させ、次王朝の基礎を固めなくてはならない。

 

とはいえ、輿論の流れは、必ずしも禅譲に傾いていない。

魏の皇帝が、必ずしも、悪政を敷いてきたわけでもない。

弾劾する材料もない。

司馬昭に、禅譲に値する、わかりやすい功績があるわけでもない。

 

少しぐらい強引にやる。

そのぐらいのことをしないといけないのだが、当時の風潮は

保守的である。

 

 

鍾会の「才性四本論」は残念ながら散逸して全体像はわからない。

しかし、部分的に伝わるものと時代の流れを考えると、

当時の名族は、才能で実績をあげるもよし、人柄で名声をあげるもよし、

いずれでもよかった。

 

傅嘏は、鍾会の「才性四本論」で、

「才」も「性」も、「同」と主張している。

 

才能に偏り過ぎたのが魏であった。

その風潮をこの時代は嫌っている。

 

才能でも人柄でもよければ、

リスクの少ない人柄で攻めるのがマジョリティだ。

 

急速にリスクを背負わない時代になりつつある。

保守的な時代に入りつつある。

 

リスクを取ってでも、才能を使って、のし上がろうとするのは、

鍾会ぐらいしかいなかった。