歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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九品官人法の弊害 門地二品

どういう状況か。

 

日本で言うと、公家の家格により、極官が決まっていることと同じ。

摂関家以下、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家など。

 

摂関家しか、摂政関白になれない。

清華家は、太政大臣まで。近衛大将・大臣を兼任できる。

(江戸時代は左大臣まで。太政大臣は摂政関白経験者に限られた)

 

これに非常に近い。

 

 

悪用したのは司馬懿という話がある。

しかし、この時点では名族に便宜を図る程度。

別段、皇帝を名族が凌駕する要因になったわけではない。

むしろその名族たちが司馬氏を推戴しただけ。

悪いのは、何もかもが司馬氏のせいにされるが、

これは否定できる。

 

この利用方法を進化させたのは王導だ。

自身の琅邪王氏をはじめとして、門地二品(もんちにひん)とする。

門地二品しか、三公になれない。

門地二品とされたのは、北から江南に逃げてきた名族のみ。

江南の、例えば四家と呼ばれる、顧氏、陸氏などは、

三品。

この結果、貴族の力は強まり、皇帝権は非常に弱かった。

それで、反乱が常に起きる。

 

東晋の元帝司馬睿や簡文帝司馬昱など

皇帝自身も、対抗しようとしたが、

時の権臣に抑え込まれた。

 

 

九品官人法とは何か。

別名九品中正法とも呼ばれる。

 

これは、

名前が二つあるように、

意味合いも二つある。

 

一つ目は、

官人、つまり官僚を九つの品というものに区分けすることだ。

最上位は一品で、最下位は九位として、

序列をつける。これを、「官品」と呼びます。

日本の「官位」の意味に近い。

 

二つ目は、

中正官という官職を創り、

郡ごとに配置する。

この中正官は、

配属され郡にいる人材を評価する。

この評価もやはり最上位は一品で、最下位は九品である。

 

最下位とは言え、採用されただけでも本来はそれなりの人物である。

 

 

この中正官による郡人材の採用時の評価を、

「郷品」

と呼ぶ。

 

中正官が、例えばある人物を

二品と評価する。

その人物が郷品を決定され、

中央に採用されると、

官品が六品の官職からスタートする。

 

そして、二品まで昇進する。

これが限界である。

 

郷品が七品なら、三品までとなる。

この上限を、日本では極官と呼ぶ。

 

日本の場合、端的に説明すると、

摂関家は摂政関白までとなることができる、

清華家は太政大臣までなることができる、

というものと同様だ。

摂関家は五家のみ(近衛・九条・二城・一条・鷹司)、

清華家は七家のみ(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)存在する。

 

話は少しそれたが、

魏の二品は、

三公(司徒・司空・太尉)と大将軍である。

三品は九卿である。

九卿という呼び名は、礼記が原典で、

慣例上使われている。

常に九人いるわけではない。

諸卿の意味である。

三公の下の実務機関を統括する立場である。

 

具体的には、

光禄勲・・・宮中警備

廷尉・・・司法担当

大鴻臚・・・来朝者の応対・接遇中華皇帝の立場なのでこういう言い方になるが外交大臣である。

大司農・・・国家財政

などである。

 

四品は、州刺史となる。

 

今の日本で言えば、

首相=二品

大臣=三品

都道府県知事=四品

と考えるとイメージは近い。

 

これが、前提なのだが、

これに尚書令と中書令が絡む。

これらは、上記三公九卿の外廷に対して、

内廷と呼ばれる。

 

尚書令は、

皇帝の文書管理、

中書令は、

皇帝の詔勅起草を担う。

 

さらに尚書令は、

部を従える。

吏部など官僚の採用を担当するものもいる。

 

これら内廷の機関は、皇帝親政の為の機関である。

その為秘書的な役割とも呼ぶが、

全てが皇帝の側近であり、皇帝が独裁を行うのに必要な役割を担った。

 

すなわち外廷と対立する。

当然最高権力者は皇帝であるので、

皇帝が内廷の支援を受けて、独裁を進めるのは、理論的に可能なのである。

 

ややこしい話であるが、

録尚書事とは、尚書を統括する。

ここに曹丕の時代、陳羣・司馬懿が就任していた。

皇帝曹丕への上奏はこの二人を通してからではないと、上げられない。

そのため大変な権力を握った。

 

尚書というのは、皇帝権と直結することで、

大きな権力を握る。

 

何晏は吏部尚書であった。

その際に九品官人法の改正を立案している。

中正官の所属を自身の吏部尚書(採用を司る)にして、

皇帝直轄にしようと。

 

曹丕以来の皇帝親政により、

皇帝の力は強まった。

合わせて、皇帝親政を支える機関の力も強まった。

 

それにより、

外廷の権限は著しく弱まったのである。

 

しかし、今度は、内廷ではなく外廷の官職についていた、

司馬懿が何晏の企てを討滅することになる。

司馬懿と同様のことをしようとした何晏が、

逆にその司馬懿に倒される。

 

 

これは、正始政変の要因の一つでもある。

正始政変は、外廷と内廷の争いとも言える。

 

当然、内廷の各ポジションを任命するのは皇帝である。

魏皇帝曹芳は無関係というわけではなかったのである。