歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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魏晋南北朝時代の対立軸

魏晋南北朝時代の対立軸を下記に
羅列する。

基本的に左記のカテゴリーは全て同じ派閥と考えて良い。
同じく右記のカテゴリーも全て同じと考えて良い。

もちろん法に長じながら、出自は名族の一つに入り、
儒家・保守的な賈充のような存在もいる。
中道寄りという人物もいることは付記したい。

誰もが猛々しい第一印象を持つ、賈充が中道寄りというのも、
歴史の面白さだ。
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法家       ⇄儒家
法治主義⇄徳治主義
法治政治⇄徳治政治
中央集権⇄地方分権
独裁       ⇄貴族政治
同一円    ⇄多重円
実力主義⇄階級社会
軍事国家⇄文治国家
内廷       ⇄外廷
宦官       ⇄名臣
濁流       ⇄清流派官僚
寒門       ⇄名族
革新       ⇄保守

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周王朝から魏晋南北朝時代までの
歴史を辿ることにより、
上記の対立軸の生い立ちを説明する。

周は地方分権である。 
血縁を中心に、功臣などを各地に領土分割。
周王を盟主として、各地に土塊の城、これを国というが、
作り、軍事力で周辺を支配、交易の拠点とする。

周王を盟主とするネットワークに加盟している、
この諸侯は、周王と交信できる文字を使いこなす。
現地民はまた別の文字・言葉を使う。

西周が滅びた後、最初に勃興した鄭は歴史がない国で、
すぐに中央集権を確立させ、軍事国家としてまとまった。
それで瞬く間に中原の強国となった。


秦は中央集権である。
各王国を滅ぼし、制度上の中央集権を確立。
各王国でバラバラになっていた文字を統一。
知識書も処分し(焚書)、秦王朝が管理。
法・礼・土木・軍事、様々な知識書。

しかし失敗。

漢は、中央集権と周王型の地方分権を両立。
法と儒の混ぜ合わせたやり方。
呉楚七国の乱で、中央集権を確立。
次代の武帝の代に中央集権確立。
軍事国家としての体制が整う。
周辺の異民族への討伐を強化。

儒家や地方分権への反動が起きる。
宣帝は、漢の当初のやり方、
法と儒を混ぜ合わせたやり方をするが、
継承し得ず、儒家・地方分権へ。

そうして王莽に乗っ取られる。
復古思想。周王の時代への回帰。

周王朝の時代とは変わって、発展していた社会を
抑えきれる、滅びる。

後漢の光武帝は宣帝を継ぎ、
漢の伝統的なやり方、法と儒を混ぜ合わせる、
やり方を取る。
すなわちなるべく中道を選ぶというやり方。

皇帝 支配者階級 農民

という時代では、これで成り立った。


後漢末、魏末晋初以降は、
ここに、
農民が、豪農と貧農に分離する。
魏末晋初以降は、
支配者階級は、名族、その後貴族となる。
貴族内は明確に序列化される。

社会が多層化する。

三国時代は、
中華内乱のため、軍事国家体制が重視される。

三国時代の大乱が西晋の中華統一により収まると、
文治国家へと急速に変化。

急速な地方分権と、根底に流れている実力主義が
内乱を加速させる。
そこに乗じた軍事国家の異民族が西晋を
最終的に亡国へと追いやる。

長江の南は引き続き分権志向。
北は軍事国家。

この混迷期が約400年続く。

その対立は、589年の楊堅中華統一により終結する。

文治国家と軍事国家のどちらであるべきかの、
政策対立は楊堅により終結する。

結論は、軍事国家。
力のあるものこそが、文治を上回る。
力がなければ、文治も成り立たない。


中央集権を完成させた独裁者なのに、
臣下の自由を認めて、文化を花開かせたら
まず名君と言われる。

これがなかなか両立し得ないのが
中国史である。