歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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姜維は費禕を暗殺した。 姜維④

 
 
姜維は何故北辺に逃亡するまで諸葛瞻らに追い詰められたか。
そもそも、諸葛瞻と董厥はなぜそこまで北伐に反対をしたのだろうか。
 
この蜀漢という国は、
非常に人気が高い。
高いからこそ、我々のそうあってほしいという思いが、
見えなくする部分がたくさんある。
 
その一つが、
北伐反対という論調があったという事実だ。
 
なぜか、費禕が、北伐を主張する姜維の意見を却下している
エピソードがあるにもかかわらず、ピックアップされない。
 
蜀漢において、
北伐反対の大元は、
費禕である。
 
 
費禕は、諸葛亮の丞相府において、
魏延とともに司馬の官職についていた。
 
軍を司る。
 
当然諸葛亮の北伐にも常に従軍していた。
 
その費禕が、
北伐を起こそうとする蒋琬に反対するのである。
 
大将軍・録尚書事である蒋琬が北伐をすることに費禕は反対するのである。
北伐は大将軍府を開府許可をした皇帝の意志でもあるのに反対するのだ。
 
余程のことである。
 
費禕は、劉備の前の蜀の領主劉璋の母の遠い縁戚でもあったことから、
益州出身者に支えられていたことも理由としてあるのだろう。
 
本来、蜀漢は流寓政権である。亡命政権である。
 
ただ、益州人からすれば、自分たちの国である。
どこにも帰る必要がない。
 
戦役を度々起こして、自分たちの資産を毀損したり、
民を疲弊させる必要性はあまりない。
 
少なくとも益州人以外の人たちよりは、必要性がないのである。
 
費禕が自身の支持基盤である益州人に配慮したというのは在り得る話である。
 
しかし、
この費禕の北伐反対論を、
どうして諸葛瞻や董厥が継ぐのであろうか。
 
諸葛瞻は、生まれは益州である。
生まれ故郷だからというだけでは少々根拠に弱い。
何といっても当然諸葛瞻は諸葛亮の子であり、
諸葛亮の恩徳を受けた人たちからの支持を受けている。
 
諸葛亮は生まれは徐州だが、
身を立てた荊州出身の人たちとの連帯が主で、
荊州閥と言ってよい。
董厥も荊州出身である。
 
2人とも、益州出身ではないのである。
 
 
費禕の益州閥云々という話とは、関係がないようだ。
 
となれば、
費禕の北伐自体が無謀である、諸葛丞相もできなかったのに、という
主張に同調したということになる。
 
これだけで、
姜維を執拗に追い詰め、
北に逃亡させるまでするのであろうか。
 
疑問である。
 
費禕とは違う動機がある。
何が対立の動機なのだろうか。
 
 
そもそも費禕は、
諸葛亮の死後、北伐に反対をした。
 
費禕は北伐に従軍していたからこそ、
その反対は注目に値する。
 
能吏でもあり、北伐時の兵站を担う尚書令でもあったので、
その反対は、無視することはできなかった。
 
 
しかし北伐は皇帝の意志であったのである。
 
蒋琬は、238年に大将軍府開府、漢中駐屯、
239年には大司馬に就任。
 
確実に皇帝の後押しをしている。
 
だからこそ、東征の取りやめは皇帝の意志がなくては、取りやめにできなかった。
 
蒋琬はこのあと病が篤くなったため、
243年に費禕が、大将軍・録尚書事に任官されている。
 
しかしながら、費禕が北伐反対派なのは周知の事実である。
そのため同年243年に北伐推進派の姜維が涼州刺史に任じられているのである。
 
だが、費禕は動かない。
 
244年に興勢の役で魏を撃退しても、費禕は漢中に駐屯して、北伐を伺わない。
大将軍府開府の請願もない。
 
皇帝としてはやきもきしたであろう。
 
それで、247年の姜維の録尚書事任官となる。
合わせて衛将軍に就任。
 
これは皇帝の意志に他ならない。
 
だからこそ費禕は
渋々翌248年に漢中に駐屯する。
 
しかし、251に費禕は成都に戻ってきてしまう。
それで、252年に費禕に対して大将軍府開府の勅許を与えて、
北伐をしろと急かすのである。
 
やはりこれは皇帝の意志である。
 
 
皇帝の意志はあるのに、
もしかしたら諸葛亮の死後から20年近く北伐に反対をしている費禕。
 
一方で、姜維は諸葛亮の薫陶を受けている。
姜維は諸葛亮から大変高い評価を受けていたから、
諸葛亮の遺志を継ぎたいと思うのは当然だ。
 
費禕には費禕なりのロジックもあったのだろう。
 
しかし、費禕は、独特な性格でもあった。
例えば、費禕は尚書令のとき、
朝夕に仕事をしながら、宴会や博打などの
遊興にも大いに耽った。
後任の尚書令である董允は費禕と同じように仕事をしようとしていたところ、
瞬く間に仕事が滞ってしまったという話だ。
これは費禕の仕事のスピードが速いというのがもちろんわかるが、
そもそも大して仕事をしていないのではないかと思われていたのを伺わせるものでもある。
 
また、費禕は、張嶷から帰順したばかりの人を信用しすぎると諫められている。
簡単に言えば慣れ親しみすぎるということだ。
一方で、この人柄は、人気があることも伺わせる。
費禕は、人心を得ていたのだ。
 
 
皇帝に北伐の意思はある。
姜維も諸葛亮の遺志を継ぎたい。
 
しかし、それは無理だと費禕は言う。
 
その均衡が破れたのは、
費禕が253年の正月の宴会で、殺害されたからだ。
 
魏から降伏してきた郭循という者が殺害した。
 
この流れを辿っていくと、
この殺害事件をああそうなのと流すわけにはいかなくなる。
 
タイミングが良すぎる。
 
そもそも郭循は、250年に姜維が西平を攻めたときに降伏してきた武官であった。
 
姜維と接点があるわけである。
 
私は姜維から何らかの因果を含まれたか、
それとも姜維が、費禕から誅殺されるかもしれないなどの偽計を使って、
暗殺させたと主張する。
 
暗殺3カ月後には北伐に出ている姜維。
 
この変化は大きい。
 
 
姜維も当時50歳。これ以上は待てないという思いもあったであろう。
 
姜維は強引な手段に出た。
 
にもかかわらず、
姜維は際立った成果を北伐で挙げられなかった。
 
非常手段を取ったにもかかわらず、
成果を挙げられなかった。
それに対する反発は非常に強いであろう。
 
 
姜維、費禕暗殺の疑いぐらいは、一部の人は持っていたのではないだろうか。
 
 
そうなると、尚書僕射から官途が始まった、
諸葛瞻が費禕の路線を受け継ぐ理由もわかる。
 
暗殺まで行った姜維に対して、
諸葛瞻が追及を途中で止めることができないのもわかる。
 
姜維の北伐失敗は、北伐反対論を復活させることにはなった。
姜維の北伐開始が非常に強引なものになったので、
その反発はより強いものになった。
 
それで、激しい権力闘争につながったと私は考える。
それが姜維の北辺への逃亡という結果に至った。