歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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魏が蜀漢をたったの3ヶ月で滅ぼしたのは驚異的である。



蜀の倒し方:

蜀が外部から攻略されたのは、
この三国時代末期の時点では三回ある。

①後漢光武帝が 蜀の公孫述を攻めた時。
 
33年から隴西を攻略開始。
光武帝の親征ではなく、
来歙が総大将。来歙は光武帝の遠い姻戚。
来歙は光武帝がまだ世に出ていない時に、
支援をしてくれた恩人である。

33年に隗囂死去していた。
来歙はその遺児と争うが、
34年に隴右を制圧。
その後、蜀方面へ軍を進める。

35年に来歙は下弁にて公孫述により暗殺される。

その後、36年にようやく公孫述を滅ぼしている。
まともに攻めて、蜀を攻略したのはこれのみ。

隴右攻略後から考えると
2年かかっている。

②戦国時代、秦の恵文王が前316年に蜀を滅ぼしている。
これは、恵文王が当時の蜀王を騙して、
蜀の桟道を作らせたことがきっかけだ。
これで、蜀の峻険な谷を通る道が完成し、
関中にいた秦軍が蜀まで攻め込むことができた。

③劉備の入蜀
よく知られる事例だが、褒められたものではない。
劉備は、張松らの要請に応えて、
張魯討伐の名目で、蜀に入る。
三万の軍勢を持って、211年に葭萌関に駐屯。
葭萌関は、220年に劉備により漢寿と改名される。
のちに費禕が命を落とした土地。
蜀から、漢中にすぐに出れる場所にある。
駐屯するも劉備は、張魯を攻めず。

212年から劉備は劉璋を攻め始める。

結果として劉備が成都を包囲し、
214年の5月に劉璋は降伏した。

足掛け3年である。

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蜀の攻略に関しては三回ある。
それぞれかかっている時間は、
光武帝 来歙 2年
秦の恵文王 不明
劉備 3年

である。騙せば早いかもしれないが、こじれると長い。
3年かかるかもしれない。
正攻法で行っても2年はかかる。

といったところだ。

対して、
魏の征蜀は、なんと3ヶ月で成功している。
これは、いくら蜀漢が疲弊していたというのが
事実であったとしても、
司馬昭や鍾会ら魏軍幹部の予想を大きく上回るものだろう。
いや、奇跡に近い。

262年秋  候和の戦い
姜維、鄧艾に敗れる。
そのまま姜維は沓中に駐屯。

司馬昭は
260年の曹髦弑逆以降蜀漢の討伐意思を持っていた。
その意向を受け、鍾会は注意深く蜀漢の動静を見守っていた。

姜維が沓中から動かないのを確認し、
すぐに軍の招集をかける。

263年5月に魏は漢討伐勅令、
秋9月に長安を軍が進発。

鄧艾が沓中の姜維に攻めかかる、
諸葛緒が姜維の背後をつく形で武都郡を襲う。
鍾会本体が、関中から最も早く漢中に辿り着く、
駱谷道を使って、漢中を急襲。
姜維のいないうちに、漢中を確保するという
作戦だ。
胡烈は、斜谷道。
漢中確保と姜維殲滅の作戦としては、
好機を活かした的確な手法だ。

当時の漢中は258年以降、
漢中平野に軍勢を引き込んでから殲滅するという
防御方法に変更されていた。
なので、魏軍は悠々と漢中平野に入れた。

9月に長安を進発してから早々に漢中を掌握。
しかし、鍾会は10月に剣閣にて立ち往生する。
姜維の剣閣守備が固すぎて抜けない。
ここで鍾会は兵糧不足を理由に撤退を検討している。
これこそが、鍾会が漢中攻略までしか想定になかったと
私が考えると理由である。

上記の作戦は漢中攻略としては鉄板の戦略で、
まさに頭の切れる鍾会らしい、理論的で手堅い作戦である。

しかし、鄧艾は間道を通って、蜀に侵入、
涪城にいた諸葛瞻は、一つ後方にある綿竹に撤退。
ここで鄧艾と決戦し、諸葛瞻は玉砕する。

そのまま鄧艾は成都に進軍する。
263年11月に
皇帝劉禅は、鄧艾に降伏。

実に、たったの3ヶ月の決戦であった。