姜維の北伐五年連続五連戦にはそれぞれ理由がある。
やたらに攻めたわけではない。
【姜維の北伐6回の軌跡】--------------------------------------------------------------
①253年 南安攻撃 →呉の諸葛恪、合肥新城の戦い
②254年6月 狄道攻撃 →狄道に内通者あり
③255年春 狄道の戦い(狄道城から出撃してきた雍州刺史王経を姜維は大破。狄道城を包囲。陳泰・鄧艾の救援で落とせず。)→魏の揚州・寿春にて毌丘倹の乱。
鄧艾は、諸葛誕の指揮下で、毌丘倹らと戦う。この乱は司馬師の果断により、
早々に鎮圧されている。その後、鄧艾はすぐに蜀漢戦線へと派遣。姜維の攻撃に対する援軍である。ここから鄧艾は、蜀漢戦線に備えて、東方戦線に駐屯する。
④256年 段谷の戦い →姜維が王経を大破したことに乗じて再侵攻。姜維は鄧艾に大敗。
⑤257年 駱谷道から進撃 →諸葛誕の乱。
⑥262年 候和の戦い→これのみは、攻撃したのみ。鄧艾に敗れる。
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(引用元:中国歴史地図集 譚其驤編集、中国地図出版社)
253年から257年までは五年連続の遠征。
257年だけ関中攻撃、あとの5回は隴を攻撃。
257年までは連戦とは言え、攻める理由があることがわかる。
なぜ姜維は自身の北伐6回のうち5回も隴を攻めたのか。
三点あると考える。
●関中の守りが魏によって、堅く整えられた可能性が高い。
諸葛亮は複数回秦嶺山脈を越えて、関中を攻めている。
当然迎撃態勢を整えていてもおかしくはない。
第一、諸葛亮北伐で複数回使ったルートでは、
兵法の常道である、虚を突くことにはならない。
●姜維の出身地でもある。
当然姜維は地勢に詳しかった。
地の利があることは、軍勢に有利に働く。
姜維は異民族羌族であった可能性もある。
姜維は姓を姜とする。
これは羌族の名字である。
周の太公望と同じ名字で、羌族の出身である。
姜維は、隴周辺の異民族との連携で魏を攻撃していることも
この可能性を疑う理由の一つだ。
また、沓中は現在ではチベット族の自治州である。
当時の氐族は、チベット族であるので、
少なくとも異民族の居住エリアに駐屯していたわけである。
姜維が異民族との関係を良好に保つ手法に長じていたことが
伺える。
儒教的発想の中華名族ではこうはいかない。
異民族に対して差別意識がある。
少なくとも姜維には差別意識はなかった。
だが、諸葛亮も第四次北伐の際に鮮卑の
軻比能(かびのう)と連携しているので、その政策を受け継いだだけとも見れる。
●姜維は、高い諜報能力を持っている。
情報収集能力が高いということは、
騎兵が多いことを意味する。騎兵を多々扱えること自体が、異民族の可能性を伺わせる。
騎兵が多いからこそ隴西まで攻めることができた。
騎兵を方々に使って、情報を集めるのだ。
隴西の奥深い沓中にて、早々に鍾会の漢中攻撃を知り、
面前の鄧艾と積極的に戦わず、逃げている。
鄧艾はこの作戦では姜維が目的なので追撃が激しかったはずだが、
それも逃げきっている。
陰平まで辿り着いた後、
漢中の西にあって、南北に武都郡と剣閣を繋ぐ関城が既に陥落したことも
すぐに把握する。
漢中が押さえらえたのなら、この関城が次の要地になるので、
姜維はここを目指していたのだが、その陥落も必死の逃走をする中、
知るのである。
そうして剣閣に入った。
なお、姜維の第五次北伐のみ、関中に向かっている。
257年の姜維北伐が関中を攻めた理由は、諸葛誕の乱が起きたためである。
司馬昭が寿春に親征、関中の兵も連れて行ったため、
漢中に隙ができたためである。