歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鄧艾の衝動=司馬懿・司馬師・司馬昭の三代に渡り愛されたその才能。

予想外だったのは鄧艾の動きだった。
 
鄧艾は沓中の姜維を攻撃し、撤退させた後、
陰平まで進軍していた。
 
そこで鍾会が剣閣で立ち往生していることを知る。
剣閣は諸葛亮が構築したとも言われる。
谷間にある鉄壁の要塞。鍾会ならずとも誰しもが陥落させるのが
困難な要所である。それ自体はやむをえない。
 
ここで鄧艾は上奏し、
間道沿いに蜀に進軍することを求めている。
 
 
鄧艾は、剣閣で立ち往生の鍾会を尻目に道無き道を進む。
 

鄧艾を引き上げたのは司馬懿

 
鄧艾は、
元々寒門、すなわち名門ではない出自である。
汝南の屯田民のひとりだったようだ。
そんな鄧艾を引き上げたのは司馬懿である。
きっかけは、魏の揚州エリアの治水を提案し、
耕地の拡大と軍の速やかな移動を実現したことが知られている。
「済河論」という著作もある。
 

司馬師も鄧艾を重用

 
司馬師に匈奴政策や呉の諸葛恪の253年合肥新城戦での
建言など、軍人として軍略の提案を多々している。
 
徹底的に司馬氏とともにあるのが鄧艾だ。
 
253年ののち、鄧艾は兗州刺史に任じられている。
 
255年の毌丘倹の乱の際には兗州刺史であるので、
司馬師が鄧艾を評価して兗州刺史に引き上げたのがわかる。
 
刺史は四品である。
すでにこの時点で名族以外では一番の出世頭ではないかと思われる。
 
毌丘倹の乱は、司馬師の電撃戦のかいもあって早期に鎮圧された。
この電撃戦成功のきっかけは、鄧艾の進軍、陣地確保が理由でもある。
 
司馬師はこの後すぐに死去する。
 

司馬昭により対蜀戦線に投入された鄧艾

 
そうした中姜維が隴を攻撃する。
兄司馬師が重用していた人物を素直に引き続き登用する司馬昭は、
鄧艾を対蜀戦線に投入。
 
鄧艾はここで初めての姜維と干戈を交える。
 
その後は、隴の担当として鄧艾は駐屯する。
 
都督隴右諸軍事としての権限を得る。
 
都督雍涼州諸軍事の陳泰や司馬望よりはもちろん下位だが、
関中を西に隴山を越えた向こう側では、鄧艾の権限で自由に軍隊を
動かせるようになった。
 
その時に戦ったのが姜維である。
 

名将姜維と名将鄧艾、良きライバル

 
姜維は寡勢を持って魏を攻撃し、領土を獲得している。
劣勢の蜀にも関わらず、魏の領土を奪えるのだから、
私は名将の一人といって良いと考える。
 
また、鍾会の征蜀において姜維は、
いち早く漢中の攻略を知り、面前の鄧艾に対峙。
結果は敗退であるが、いち早く反応できたことは
姜維のすごさである。
 
非常に、というより、尋常ではない情報網を持っていた。
 
この姜維を度々破るのが鄧艾である。
名将姜維を上回る名将が鄧艾である。
 
鄧艾にとって、戦い甲斐がある相手が姜維だ。
 
そんな鄧艾である。
 

好敵手姜維を打ち倒したい、鄧艾

 
道無き道を行くほど鄧艾を駆り立てたのは何か。
 
好敵手姜維を倒したい、
名族鍾会への反発、
そして農政家としての勘でこの道無き道でも蜀に辿り着けるという確信、
 
70歳に近い老体の鄧艾が身を粉にして、
進むに十分な理由だ。
 
蜀に入った後はどうなるかはわからない。
 
剣閣の背後をつくことになるか、
そのまま進撃するかは状況次第であろう。
 
文武両道で硬軟使い分けることのできる鄧艾にしては、
非常に思い切った行動に出た。
 
鍾会が撤退してしまえば、
蜀にて袋叩きに遭う可能性も十分にある。
 
それでも鄧艾は進撃した。
 
鄧艾は三万の兵を引き連れて、沓中の姜維を攻めている。
 
蜀に辿り着いた鄧艾に従っていた兵は、
3万以下。
 
涪城、綿竹、雒城、成都、どれも籠城されたら、
すぐに陥落させることは難しい。
 
3万の軍勢を引き連れた劉備の精鋭軍でも
蜀の攻略に三年かかっている。
 
鄧艾のこの進撃は尋常ではない。
 
その勢いは、涪城から諸葛瞻を撤退させる。
士気を高めた鄧艾軍は綿竹に籠る諸葛瞻を強引に落とす。
 
鄧艾はここで景観を作る。
蜀兵の死体で山を作るのである。
 
ここまでくると一種の高揚状態であろう。
 
そして、成都を包囲した鄧艾軍は、
皇帝の降伏を受ける。
 
漢の放伐が成功した瞬間であった。
 

誰が対蜀戦の統括者か。

 
※司馬昭は、対蜀戦において
鍾会に仮黄鉞を与えていない。
なので鍾会は、
総大将ではないと言える。仮節のみであるからだ。
仮黄鉞がないと、
軍法裁断権がない。
(衛瓘に節を与え、
監軍として従軍させていたという説もある。
そうなると鍾会は仮節すらないことになる。)
 
仮節、とか仮黄鉞は、
大将軍の地位にある司馬昭自身が持っている権限を
誰かに委任するというものである。
 
司馬昭が上記のように委任していないとなると、
対蜀戦の総大将は、司馬昭ということになる。
 
しかし、洛陽にいて数ヶ月動かないということで、
総大将と言えるのであろうか。
 
ということで、
現地の最高位は鍾会である。
だから、結局、
事実上の総大将とみなせる。
 
しかしこれでは鍾会にとっては不満なのは間違いない。
 
このような形での総大将では、
鍾会が司馬昭に対して疑心を持ってもやむを得ない。
 
これが最終的には
鍾会を反乱に至らせる。
司馬昭の差配ミスである。
 
しかし、
三国志の著者陳寿は
西晋の時代に三国志を編著するので、
この司馬昭のミスを
明確に書けない。止むを得ない。