姜維と諸葛瞻以外、
まともに戦っていないことが大きい。
つまり各城主とも、徹底抗戦せずに、
降伏しているのである。
これは、何故だろうか。
例えば、劉備の入蜀の際には、
劉璋サイドの各城主が籠城して抗戦している。
にも関わらず、
何故降伏が多かったのか。
戦意がないということになる。
その原因は何か。
姜維が費禕を暗殺したことにある。
益州人を代表していた費禕は、
姜維により不当な手段で殺害された。
これは益州人が間接的に弾圧、脅しをかけられたとも言える。
録尚書事の姜維が、同じ録尚書事の費禕を殺害することで、
益州人の意思は政策反映されなくなった。
姜維は荊州人の北伐賛成派の支持を受けて、
北伐を敢行する。
しかし姜維は目覚しい成果を挙げられなかった。
段谷において鄧艾の前に大敗し、
蜀漢国内において、
反対論が燻り始める。
258年に姜維が関中に進出できなかったこと、
尚書令で北伐支持派の陳祗の死去、
この2点が、北伐反対論を再度復活させた。
録尚書事姜維は、
成都に戻る。
各有力者とコミュニケーションを取っただろうが、
費禕の暗殺という強行手段までしたにも関わらず、
成果を挙げられなかったという事実に変わりはない。
この時点で、姜維は政治的に著しい信用の毀損をしていたのである。
258年に陳祗の後任の尚書令に就いた董厥は荊州人。
261年に姜維の録尚書事の下位に、
平尚書事に董厥と、諸葛亮の息子の諸葛瞻が任官される。
諸葛瞻は227年に蜀にて産まれたが、父の経緯もあり、
荊州閥である。
董厥の後任の尚書令は、
樊建。樊建も荊州人である。
董厥、諸葛瞻、樊建の3名とも
荊州閥だが、全員すべて北伐に反対する。
それでも、姜維の北伐推進のロビー活動は
激しかったのか、
董厥と諸葛瞻は、宦官の黄皓まで巻き込んで、
北伐の中止をしようとする。
姜維を益州刺史に任じて成都に召還することで、
北伐ができないようにしようとしたほどだ。
益州人、荊州人ともに、
北伐に反対していた。
唯一姜維のみが北伐をしようとしていた。
姜維の費禕暗殺は、
諸葛亮が作った蜀漢の一体感を破壊した。
強行手段に出てまで行った北伐は、
著しい成果を挙げられず、益州人の失望を買った。
そんな益州人の影響を受け、
荊州人も北伐への意欲は減退した。
つまり、姜維以外は、
北伐をすることに萎えたのである。
いたたまれず、沓中に去った姜維。
そうした中の263年、
魏による征蜀である。
蜀漢国内に戦意がないのはやむを得ない。
戦意があったのは、
姜維とその指揮下の武官、
建国の元勲諸葛亮の息子、諸葛瞻ぐらいであった。
抵抗がなければ、3ヶ月で蜀漢は滅びるわけである。