歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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263年魏の蜀漢討伐 第二段階〜鍾会漢中制圧後〜


姜維は沓中から陰平に撤退する。
鍾会の漢中攻撃をはじめ、
早々にこの状況を把握。
鄧艾軍にこだわらず撤退を急ぐ。

漢中を取られたら元も子もないないからだ。


沓中は、岷山山脈の中にある。
岷山の北側、迭山の南側の
白龍江沿いにある。

岷山山脈は、九寨溝などがあり、現在は、
ジャイアントパンダの保護区がある。

この岷山山脈は、黄河水系と長江水系を
分ける分水嶺の山脈だ。

東西500kmに渡る山脈である。
海抜4000mから4500mの山が連なる。

姜維はこの沓中から白龍江沿いに東に撤退する。
どうも現在ではダムなど水力発電が多い河のようだ。

高低差が非常に激しいことが想定される。

疆川口にて、
姜維は鄧艾軍に捕捉される。

ここで、姜維軍と鄧艾軍は戦うが、
姜維は早々に負けて撤退。

むしろこれは姜維の負け方がうまいと言って良い。
もしかしたら、追撃をかわすために、一旦ここで
姜維は戦ったのかもしれない。詳細は不明だが、
鄧艾軍に挟撃されていた可能性がある。

とにかく姜維は蜀漢本土、漢中へ急ぎたい。
鄧艾らは、諸葛緒が姜維の背後に回り込むための時間を稼ぎたい。

姜維は引き続き白龍江を下りに下る。

姜維は馬の印象があるが、
船で降ったはずだ。このスピードを考えると船しか考えられない。

そのまま下ると、
この白龍江は、白水江という河に合流する。
その合流点にあるのが、橋頭という都市である。

ここに祁山方面から蜀漢に侵入してきた
諸葛緒の軍勢がいることを知る。

姜維の搦め手である。

この諸葛緒のスピードを考えると、
諸葛緒は、武都郡を掌握して、陽平関を陥落させ、
白水から西に橋頭や陰平に入るという作戦ではなかったことがわかる。

諸葛緒は初めから姜維狙いで、
祁山を越えてから、この白龍江と白水江の合流地点橋頭を目指していた。

姜維は諸葛緒が回り込んでいることを知り、
山を越えて孔函谷経由で陰平に入る。

陰平は、白水江沿いの都市で、
橋頭よりも上流に当たる。

姜維は陰平に入るが、ここで諸葛緒を撒く。
もう一回孔函谷経由で、
北道である白龍江沿いに戻ろうとする。
これは陽動で諸葛緒が白龍江沿いを遡らせて、
もう一度陰平に戻り、橋頭を越え白水に奔る。

陰平から橋頭を経て、白水に至る道を景谷道と呼ぶ。
現在でもこの程度の道である。

かなり機動性を損なわれる道だ。
但し、陰平というのは蜀漢の都市なので、
当時もこの景谷道の写真のようなものがあった。
逆に橋頭から白龍江沿いに沓中に至る道は、特に都市もない。
蜀漢最前線で、またかなりの高地なので
道はそこまで整備されていなかったと
考えられる。

諸葛緒はそれを知らず入り込んでしまい、
姜維は景谷道に戻り、おそらく河も使いながら、
白水に急行した。