歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鄧艾の、橋頭から江油に至る山越えルート~蜀漢討伐~

鄧艾の裏道 橋頭→江油


※赤線が鄧艾が通った道。広武関の上部が道なき道を行って、鄧艾がフェルトに身を包んで転げ落ちたところ。

  鍾会は白水で諸葛緒から軍勢を奪い、南方にある剣閣に向かっていた。

 

 

徳陽亭あたりは標高1000メートル。

北の山地は、標高2400メートルぐらい。

標高差1400メートルと、

軍事上の重装備の登山としてはかなりギリギリの行軍である。

冬に差し掛かる時期(10月から11月のこと)で、一歩間違えると遭難する危険性も高かった。

 

標高差1100メートルで、

日本の神奈川県にある、

丹沢の大倉尾根登山と同じである。

この登山道は、穂高岳などアルプスを踏破したい人の

訓練コースとして推奨される。登山装備を整えて登る、登山中級者以上向けの道だ。

 

これをなんとか踏破して、江油に到着する。

 

 

鄧艾がかなり無茶をしたことがわかる。

 

鄧艾は、姜維捕捉作戦に失敗していた。

一方、鍾会は漢中制圧作戦を、電光石火成功していた。

鄧艾のきまずさはわかる。

 

挽回を図ろうとして、鄧艾は上奏する。上奏というが、

司馬昭に対しての上書であろう。既に魏皇帝に実権はない。(上奏は、皇帝や天皇に対して行うもの)

 

裏道があるので、

そこを使えば蜀漢の裏を突けるので許可してほしいと。

 

鄧艾はこの時点で焦っていた。

また、大した戦歴のない若造の鍾会が漢中制圧という快挙をたった一か月で

成し得たことに、

反発していた。

 

一方、鍾会は、徹底的な才能・実績主義である。

作戦に失敗した鄧艾と諸葛緒を見下していた。

 

この後諸葛緒は鍾会により解任され、

軍勢は奪い取られている。

 

その後鍾会は剣閣に向かっている。

 

鄧艾は、

橋頭に置いてきぼりを喰った。

 

鄧艾は臨洮から、姜維が駐屯していた沓中を攻撃、

その後疆川口で戦う。

そこから白龍江沿いに下っていくと、辿り着くのが

橋頭である。

 

そこで、鄧艾は宙に浮いた形となったのである。

鍾会に置いてきぼりを喰らい、

屈辱的な扱いを受けた。

鄧艾が姜維捕捉作戦を失敗したのも事実である。

 

鄧艾の怒りが、

橋頭から脇道を入って、

山越えをする原動力となった。

 

上記の司馬昭に出した上書の返答はないまま、

間道に入った。鄧艾は三万の軍勢を率いて、裏道に向かった。

 

鄧艾の原動力は反発と怒りである。

だからこそ、諸葛瞻を破った後、

景観(敵の蜀兵の死体で作る山。敵に対する威圧行為である)を作り、

成都入城後は王のように振る舞った。

 

鄧艾の鍾会に対する反発から起きたこの行為。

それが結果として、漢の放伐成功という漢中制圧以上の大快挙となった。

ある種の高揚感が鄧艾の中に生まれ、有頂天になる。

それはやむを得ないことであった。

 

しかしながら、王のように振る舞うのはまずかった。

司馬昭の疑念を生んだ。事実として、当時までは

皇帝は鄧艾のような寒門出身のものであったので、

漢の放伐成功を成し遂げた鄧艾が思い上がるのもあり得ることだ。

 

それが鄧艾にとって命取りになった。