歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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漢皇帝劉禅こそが、漢王朝の皇帝権の理想的なあり方である。


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【前漢】

高祖 いわゆる郡国制。すなわち皇帝権が中華全土に及ばない。

↓   丞相に政治を委託、輔弼。

景帝 前154年呉楚七国の乱にて、皇帝権中華全土に及ぶ。その後丞相廃止。

---【ここが漢王朝が中華王朝として確立した時期】---------

※ここから二つの路線対立が始まる。

武帝 皇帝独裁確立。

↓   霍光の輔弼。

宣帝 皇帝独裁

↓   外戚王氏の専横。

王莽 簒奪。

↓  

【後漢】

光武帝 皇帝独裁

後漢の幼帝たち 竇氏、鄧氏、梁氏が外戚として専横。

↓         皇帝たちは、宦官を使って相争う。

献帝       軍人で宦官の系譜を継ぐ、

          清流派官僚以上の見識を持つ曹操が漢王朝に引導を渡す。

          曹操の諸派閥を跨る個性的なプロフィールが、

漢王朝を滅亡に追いやった。

          諸派閥のバランスが漢王朝の成立要件と言ってもよい。

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漢王朝の政治体制というのは、

前漢武帝のときに確立している。

 

それは、二つの路線である。

 

①一つは、前漢武帝が志向した皇帝独裁制。

②もうひとつは、前漢武帝の後継者昭帝が

幼かったために武帝の遺言により霍光が実行した皇帝輔弼体制、

 

のことである。

 

皇帝は前者を志向する。

外戚や名族、清流派官僚は後者を志向する。

 

代表的な事例を挙げると、

①前漢武帝、前漢宣帝、後漢光武帝

②霍光、王莽、竇太后と竇憲ら竇氏、鄧太后とその弟の鄧隲ら鄧氏、梁冀。

 

となる。

 

 

この二つの路線が常に対立するのが、

中国史と言える。

 

皇帝独裁は、前漢武帝の時に初めて確立した。

 

前漢武帝以降、

幼帝の時は臣下に政治を委任。

その臣下は結果的に外戚となる。

何故なら、皇帝は臣下との交流がないため、

自身の姻族である外戚しか登用のしようがない。

他では信頼も出来ない。

そもそも政治経験が浅いので、

才能の評価の仕方すらわからない。

 

しかし武帝以降は皇帝は皆独裁親政を志向する。

それで、一時的に臣下に政治を任せたとしても

結局皇帝は実権を取り戻そうとする。

しかしその制度上の仕組みはない。

 

皇帝が実権を取り戻すには、

仕組みがなければ実力行使に及ぶ他ない。

 

外廷は外戚が握っているので、

登用の手段がない。

 

となれば、自身の暮らす後宮で調達する他ない。

 

そこで出てくるのが、

皇帝の使用人、宦官である。

 

 

幼帝のときは然るべき人材が、

皇帝の委任の元々、政治を代行する。

 

成人すれば、皇帝は親政する。

親政のもと、政治を委任するのは勝手である。

本来は皇帝の親政の下、名臣がそれを支える、

それこそが漢王朝政治体制の理想的な形である。

 

そういった意味では、

蜀漢は漢が考える理想的な政治体制に忠実であった。

 

劉備が崩御した時には劉禅は、16歳。

政治も未経験。

劉備の遺詔もあるので、

諸葛亮が執権となった。

それは前漢初期の丞相・武帝以降の前漢・後漢の外戚と

同じである。

 

諸葛亮の死で丞相は空位となった。

 

ここで劉禅の親政は始まっている。

尚書を中心に政治は動く。

尚書のトップ、録尚書事が

事実上の宰相となる。

 

しかし蜀漢には北伐、および外敵の討滅という

至上命題がある。

 

そのため大将軍を立て、大将軍に

開府を許して、

独自の行政組織を組み立てさせる。

北伐の遂行という勅令を下すのである。

 

政治を委任された側は、皇帝を蔑ろには全くしていない。

諸葛亮・蒋琬・費禕・姜維とともに

皇帝の威権あってこその権力である。

 

ただ、政治を任されるべき存在がいなくなったときに

機能不全を起こした。

 

蜀漢の人材が枯渇したとも言える。

 

また前漢・後漢の政治制度を踏襲する蜀漢の宿命とも言える。

 

皇帝自身は、

実務に携わらない存在なので、

人材の発掘に不利である。

 

優秀な臣下が人材を発掘し、皇帝に献上し続けなければ

ならない。

ただ、それは創業期の元勲と言えるような人物は、

純粋に人材を発掘するかもしれない。

 

諸葛亮は、蒋琬も費禕も姜維も発掘している。

 

しかし、時が経てば派閥もでき、

自身に有利な人材のみを推薦するようになるのは

どうしてもやむを得ない。

 

そうして、皇帝を支えるというよりは、

派閥の長を支える人材のみになる、

 

皇帝は各派閥の支えがあってこそになり、

皇帝は宙に浮いた存在になってしまう。

 

そうなると皇帝は

事実上の権限を失ってしまう。

 

頼れるのは、外戚や宦官など

皇帝自身が個人的関係のある者に限られてしまう。

 

派閥化が進んだ蜀漢末期には、

この傾向が前漢・後漢と同様に表面化した。

 

そうしたなか、

公主を娶っていた諸葛瞻が登場する。

諸葛瞻の登場は、

皇帝の意向もあっただろう。

姜維ら北伐派の意向もあっただろう。

また北伐反対派の意向もあった。

 

皇帝の輔弼のため、北伐賛成および反対派の対立という

2点から登場してきた。

 

諸葛瞻は結局北伐反対派の肩を持つ。

 

しかし、劉禅のスタンスは、

バランス型だ。漢王朝における諸勢力の

理想的な形を考えると、皇帝は劉禅のようにバランス型を取る他ないのである。

皇帝は力はあるけど控えめに。

外戚・姻族も力を得るけどやはり控えめに。

臣下は名臣と呼ばれるほど輔弼に徹する。

このバランスを、トップである皇帝は上手に取る。

 

それで蜀漢はまとまってきたのである。

 

ここで諸葛瞻はバランスを損なうようなことをする。

北伐反対の意見が皇帝劉禅に受け入れられず、

そこでどうしたか。

 

皇帝の婿諸葛瞻は梁冀と同様のことを行なった。

宦官黄皓を引き入れたのである。

 

黄皓は30年黙々と劉禅に仕えてきた。

 

諸葛瞻は皇帝権にアクセスするために

これを利用した。

 

梁冀と同じ振る舞いをしたのである。

 

諸葛瞻は、後漢を事実上の崩壊させた梁冀の轍を踏み、

蜀漢を亡国に追いやったのである。

 

一方、漢王朝の系譜からすると、

姜維の立場は、後漢末期の党錮の禁で排除された

清流派官僚の位置付けとなる。

だからといって姜維を

肯定するわけではない。

 

後漢と同様に、

各派閥の分裂が国を亡国に追いやったからである。

 

なお、費禕の子費恭も劉禅の公主を娶っている。

劉禅の皇太子の妃は費禕の娘である。

皇太子が即位すれば、費禕が外戚になる予定であった。