歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

「暗愚」という虚構〜劉禅肯定論〜書物から辿る

暗愚という虚構の劉禅

 

虚構の劉禅は、

どれだけ頑張って努力をしても報われなかったという、

冷厳たる事実から、目を背けさせてくれる。

 

「劉禅が暗愚だったから駄目だったんだ。」

それで納得をしたい人たちの思いが作ったものである。

 

 

劉禅肯定論を以下5つの視点から説明したい。

 

 

 

 ------------------------------------------

・思想的背景

儒家皇帝、劉氏のみ皇帝論、

・蜀漢は魏のアンチテーゼ

・陳寿の著作

・漢皇帝としての行為はある。

(ないとよく言われるがある。)

・劉禅は何故早々に降伏したのか、は

やりきったこととこれ以上被害を拡大しないため。

---------------------------------------------

 

 

  • 司馬昭は善、劉禅は悪。

 

漢晋春秋(成立は東晋時代)の劉禅は暗愚な君主として描かれる。

 

それは本来は漢を受け継ぐ皇帝なのに、

全く相応しくない姿で描かれる。

 

それに対して、司馬昭は立派だった。

皇帝足るに相応しい実績と格を備えている。

事実上、司馬昭は漢の劉禅を滅ぼした。

司馬昭は、漢の天命を受け継ぐ。

 

加えて、魏は苛烈な政治を行い人心を失っていた。

 

徳望のある司馬昭は、万人の支持を得る。

魏が失っていた人心も得る。

 

漢の天命と、魏の人心を受け継ぐ司馬昭。

司馬昭は264年に病に倒れるが、子の司馬炎が

司馬昭を後継し、

265年魏元帝から禅譲を受けるというストーリーだ。

 

魏の禅譲よりも、漢の放伐の方が重要視されていることが

ポイントだ。

司馬昭は漢を承ける。

 

劉禅は司馬昭のためにケチョンケチョンに貶されなければならない。

 

これは、時の権力者桓温への対抗措置である。

漢晋春秋にて、東晋が天壌無窮の王朝であるという

プロパガンダを実施し、

桓温への禅譲輿論を牽制した。

 

その被害者は劉禅である。

 

ややこしい理屈を作ったものだ。

 

漢晋春秋とは別の、政治的影響を受けない書物から

劉禅の実態を探る。

 

  • 皇帝劉禅としての意思はある。

 

下記に3点挙げたい。

 

華陽国志ーーーーーーーーーーー

 東晋 355年に成立。

巴・蜀・漢中の地方志。

断片的な歴史や、地理の沿革、物産などが記されている。

漢晋春秋とかなり近い年代の成立と思われるが、

地方志という性格上政治的影響は比較的少ないと思われる。

 

その中に下記の記述がある。

「李邈が諸葛亮の死の直後、諸葛亮を讒したところ、

劉禅は激怒し、李邈を即座に処刑した。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

李邈は劉禅に対して建言する。

諸葛亮の死は皇帝にとってメリットがあった。

諸葛亮は皇帝の権限を脅かしていて、

その死は喜ばしいものだと李邈は言ったのである。

それに対して劉禅は激怒し、

李邈を処刑した。

 

意見を取り上げたなかったのではない。

李邈を死刑にしたのである。

確かに諸葛亮に独裁とも言える権限を与えたのは、劉禅の父劉備の遺詔であった。

それから11年、劉禅は父から言われたから、

そうしていたのではなく、自分自身の決断で、諸葛亮に権限を与えていたのがこれでわかる。

 

また、中国史において、

君主に阿る(おもねる)完全な讒言を

嫌う君主は多く、その事例は大半が処刑だ。

大体が名君のエピソードだが、

この手のエピソードが劉禅にもあるのは非常に興味深い。

 

地方志を扱う華陽国志は、

政治的影響は比較的少ない。

 

 

 

・諸葛亮集ーーーーーーーーーーーーーーーーー

西晋陳寿の著作である。

陳寿は、蜀漢の出身である。

父はどうやら馬謖の幕僚、参軍であったようだ。

街亭の戦いにおいて、馬謖に従い、

そして蜀漢の大敗をもたらした。

 

馬謖は処刑されたが、

陳寿の父は禿刑を受けたようだ。

 

これだけで、陳寿は蜀漢に対して反発心を持っていたという話もあるが、

これだけで判断して、陳寿の著作を読み取るのは早計な気がする。

 

陳寿は譙周の弟子である。

譙周は、蜀漢における北伐反対派であった。

鍾会・鄧艾による蜀漢討伐の時、

成都に迫った鄧艾を前に、譙周は劉禅に対して

降伏を建言している。

 

譙周の判断は難しい。

後に西晋に取り立てられていることもあり、

西晋との関係性は否定することは簡単ではない。

 

譙周のロジックとしては、

このタイミングで降伏すれば、皇帝としての対面を保てる、

呉に亡命したとしても、その後は呉が滅ぼされれば、

二度も虜囚の辱めを受けることになる、

というものであった。

 

譙周が西晋に取り立てられたこともあり、

陳寿も取り立てられる。

 

その後、西晋張華の評価を受ける。

張華は当時寒門の出世頭である。

与党が少なかったことも寄与したのであろう。

張華の庇護の下著作に励む。

 

こうした背景から、

陳寿の作品は、

西晋の立場に寄りながら、

蜀漢の事情には詳しいものとなると想定される。

 

陳寿の著作の一つ、諸葛亮集から

下記三つのエピソードを挙げたい。

 

なお、諸葛亮集なるものを陳寿が著している時点で、

当時から諸葛亮に関する関心は非常に高かった事が窺える。

 

  • ・意思を持っての、劉禅の諸葛亮路線継承

 

ーーーーーーーーーーーー

魏延が反乱を起こした際には、魏延の三族を処刑。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

魏延は234年に諸葛亮陣没のため

蜀漢軍が五丈原から撤退する際に従わなかった。

 

軍法違反として、

楊儀、費禕。馬岱の対応で魏延は殺害できた。

 

諸葛亮の後継者は、諸葛亮の遺言により、

蒋琬と決まっていたが、蒋琬体制が確立していたわけではなかった。

諸葛亮は病に伏していたとはいえ、

陣没であり、

蜀漢の高官にしかその状況は知らされなかっただろう。

蜀漢内で知られていれば、魏の知るところになり、

五丈原で対陣している司馬懿の襲撃を受けることは必至である。

小説などで五丈原の戦いを読むと、

何か運命のように諸葛亮の陣没を味わうが、

当然諸葛亮は五丈原で死ぬ気ではなかったのである。

諸葛亮は途上で死ぬ気ではなく、

その先に進むつもりであった。

当人もその意識だったので、

その死は本人ももちろん周囲も突然のことであったはずだ。諸葛亮は自身の後継体制などを整えてから北伐をしているわけではないのである。

 

すなわち、魏延誅殺の時は、蒋琬が判断を下す事はできない。蒋琬体制は作られていないからだ。

 

となれば、

漢皇帝が下す他ないのである。

丞相長史楊儀と丞相司馬魏延はお互いにお互いを批判する内容を上奏した。

 

劉禅は周囲の意見を参考にして、

楊儀を支持し、魏延を誅殺した。

ここに劉禅の親政は実は始まっていたと言える。

そしてその内容は、諸葛亮頼りだった蜀漢にも関わらず、

正しいジャッジメントができるものだったと言えるのではないか。

 

加えて魏延の三族まで滅ぼしている。

諸葛亮の指示を支持するものであるとともに、

三族誅殺は諸葛亮の遺言にプラスアルファされていることに

気づく必要があると私は考える。

 

諸葛亮は魏延が反乱を起こしたら、置いてきぼりにして撤退せよという

作戦であった。

 

当然魏延は見捨てる、排除するということである。

 

しかしその後の処理は指示していない。

ということは、三族誅滅は皇帝劉禅のジャッジである。

 

蜀漢には、漢を受け継ぐ寛恕の政治というスタンスと、

諸葛亮が敷いた法家政治の、二つの側面がある。

 

諸葛亮は法運用を厳しく行なったが、

まさに飴と鞭の関係で、皇帝劉禅は寛恕のポジションであった。

 

しかし魏延には厳罰で臨むのである。

 

政治的対立を孕んだこの魏延の反乱には、

後顧の憂いを一切立つという目的とともに、

諸葛亮路線を厳密に引き継ぐという劉禅の意思の表れでもあったと

私は主張する。

 

これは、皇帝劉禅が実行するからこそ意味がある。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

劉琰が妻の不貞を疑い、

妻に対して暴行した時には処刑している。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは劉琰の妻が参内して1ヶ月帰ってこなかった。

それは皇后の希望だったのだが、

劉琰は皇帝と不義を疑った。

そのため、劉琰は妻に暴力を振るった。

それを知った皇帝劉禅は、

劉琰を処刑したという話である。

 

これをもって、劉禅は暗愚だという考えもある。

しかし、

これは明らかに不敬罪である。

皇后が引き止めていたという実態はともかく、

勝手に皇帝が手をつけたと

劉禅を謗っているのである。

 

我々がすぐ名前が思いつく中国の皇帝であれば、

単なる処刑では終わらないだろう。

酷刑が待っているはずだ。

むしろ劉禅の処置は甘いぐらいである。

 

劉禅は皇帝としての矜持は当然持っているのである。

 

 

-----------------------------

諸葛亮が廖立の非を上げ、処刑を上奏したが、

死刑するには忍びないということで、

汶水郡への流罪に留めている。

ーーーーーーーーーーーーーー

 

これは非常に重要なエピソードだ。

劉禅は諸葛亮の言いなりではなかったのだ。

廖立は父劉備が荊州南部で自立した時に仕えた官吏である。

建国時の功臣とも言える。

しかしながら、廖立は昇進において諸葛亮の後塵を拝し、思うように重責につけなかった。

そのため諸葛亮を口々に批判する。

諸葛亮は目に余ると思い、処罰を考えるが、

何分自身のことなので劉禅に上奏したのであろう。

 

劉禅は処刑までは忍びないと考え、流罪に処した。

成都から比較的近い北方の山岳地帯汶水郡に流した。

 

ここからわかるのは、

劉禅はバランサーとしての機能を持ち合わせているのである。

例え諸葛亮が廖立を処刑して欲しいと言っても、

それを退ける事を劉禅はできるのである。

諸葛亮の意見を退けた理由は廖立が建国時の功臣だからであろう。

 

諸葛亮のイメージがあるから、

彼が劉禅に建言をしたという謙虚さを讃える人が多いだろう。

しかしながらここでのポイントは、

諸葛亮の劉禅への建言だけではないのである。

劉禅は諸葛亮の意見を退けていることが重要なのである。

自立した判断ができるのである。

 

司馬懿は正始政変の後に曹芳に伺いを立てる事はしたかもしれないが、司馬懿の意向に反する事はしなかった。

孫権の遺言があったにも関わらず、

諸葛格は魏を攻める。

当然皇帝孫亮の勅許が前提だが、

意向に反する判断はしていない。

 

劉禅は自立してジャッジができ、実行もできるのだ。

決して言われるがままではない。

だからこそ、諸葛亮が劉禅に遠慮をして伺いを立てたという見方もできるのだ。

 

最後に、

陳寿の正史三国志から引用したい。

 

 

・正史三国志における陳寿の劉禅の評

serozz.com/san/syoku/hyou_syoku.html

ーーーーーーーーーー

後主伝 第三

劉禅

評にいう。後主は賢明な宰相に政治を任せているときは、道理に従う君主であったが、 宦官に惑わされてからは暗愚な君主であった。 伝に、「白糸はどうにでも変わるものであり、ただ染められるままになる」とあるのは、なるほどもっともである。

 

礼では、国君が国家を継承した際には、年を超えてから年号をあらためるはずなのに章武三年に建興と改元しており、 このことを過去のたてまえと照合してみると、道理に合わない。 また、国に史官を置かず、記録係の官もおいてないため、事実に遺漏が多く、災害の記録も無い。 諸葛亮は政治に熟達していたけれども、およそこうした種類の事に関して、なお周到でないところがあった。

 

しかしながら、〔諸葛亮の生存中は〕十二年を経過しながら年号を変えず、 しばしば出兵しつつも、恩赦をみだりに行っていないのは、やはり卓越した事ではあるまいか。 諸葛亮が死没(建興十二年)してからのちは、かかる体制もだんだん欠けてきており、その優劣は歴然としている。

 

ーーーーーーーー

まず前提として押さえなくてはならないのは、

陳寿は西晋の立場で記述しているということである。

 

西晋は正しく、素晴らしく、

蜀漢は愚かで徳を失っていた、というストーリーにするのは当然である。

 

それにしては、非常に穏やかな論調だ。

批判されているのは2点である。

 

諸葛亮、蒋琬、費禕ら賢明な宰相に任せている時には道理に従う君主だったが、

宦官に惑わされてからは暗愚だった。

 

これは、劉禅は治世の最晩年に当たる話だ。

宦官黄皓に惑わされたという話だが、

実は漢の制度上宿命とも言える。

外廷に賢明な臣がいなくなると、皇帝は途端に手足をもがれた形となる。

 

姜維は蜀漢内をまとめきれなかった。

本人の適性、志向もあり、軍事に注力をした。

それに反発をした勢力を姜維は抑えきれず、

蜀漢内はまとまりが利かなくなった。

 

反姜維派で北伐反対派の一人諸葛瞻は

姜維を排除しようと、

皇帝に進言するが、叶わなかった。

 

そこで、諸葛瞻は、皇帝の意思を翻そうと、

宦官黄皓を通じで皇帝の意向を変えるようとする。

 

皇帝劉禅は、

外廷における、姜維ら北伐推進派と諸葛瞻ら北伐反対派の対立により、

然るべき輔弼を得られなくなった。

 

誰を信用して良いかわからなくなる。

 

そうした皇帝の心の隙に、

身近にいる皇帝の使用人宦官は入り込む。

 

前漢の武帝や宣帝は、

中書という内宮の機関を使って詔勅を起草しており、

漢の制度上このような流れになるはやむを得なかった。

 

外廷における対立で、

一体誰の言うことを信ずれば良いのかがわからなくなった劉禅は、

身近な使用人ぐらいしか信ずることができなくなった。

 

ここまでならまだしもであるが、

諸葛瞻はここで黄皓を政治対立に巻き込んだ。

 

これも漢の政治制度上の宿痾とも言える。

 

決して劉禅のことを優秀と言うつもりはないが、

やむを得ない事態であったと私は考える。

 

また、

改元や、史官を置かなかった事はほかの懸案事項に比べれば、

非常に些末なミスと言わざるを得ない。

重箱の隅をつつくようなものである。

確かに蜀漢は記録が少ない。ただそれは、

流寓政権である蜀漢は、

そのようなことを整備するよりも、

北伐の方が優先順位が高かったと私は考える。

 

この程度のミスしか挙げられないぐらい、

ミスがなかったのではないかと考えてしまうほどだ、

 

 

 

 

 

劉禅は無能ではなかった。

だからこそ蜀漢の滅亡は無力感を漂わせる。

正しいことを言っても行っても、力の前では無力なのだと感じさせてしまう。

 

これは権力者には参考になる結果だが、

万人受けはしない。

 

このような話を聞いてしまうと、

誰しも自分自身を小さな存在に感じてしまうだろう。

 

劉備・諸葛亮・関羽・張飛・趙雲・蒋琬・費禕・姜維が

いくら死力を尽くして人生を賭けても

蜀漢は滅びてしまったのだ。

 

この無情感を癒すには、

劉禅が愚かであったの方が救いがあるのだ。

 

だからこそ、三国志演義はすんなりと心に染み込む。

劉禅には暗愚であって欲しいという気持ちが

我々の潜在意識にあるのだ。

 

では、蜀漢の何が悪かったのか。

 

後世の中華の人たちが好きな漢王朝の復興という夢を達成できなかったことだ。

 

何故出来なかったか。

それは国が小さかったからだ。それ以外はやりきっていると私は主張する。

 

そのクレームは本来曹操や孫権、および彼らを支持した当時の人たちに

言うべきだ。