歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬昭が受けた、晋公・相国・九錫の意味



司馬昭以前に九錫を受けたのは、
王莽・曹操・孫権である。

司馬昭含めて四者を比較する。
比較すると、司馬昭が輿論形成に腐心していたことがよくわかる。


●王莽の場合:
足掛け9年、九錫を得てから4年で禅譲である。
大司馬に就く前に王莽は左遷されていたが、
諸臣の請願により復帰する。

王莽は伝説上の禅譲を除くと、初の禅譲を受けた人物である。
儒家皇帝として君臨、王莽が創造したスタイルは、
実は永らく中華史上ベンチマークされていることは特筆に値する。

前1年大司馬
※軍権の完全掌握から入ることがポイント。
少しややこしいが、漢王朝において、
この大司馬は、三公の太尉のことである。
武帝のときに太尉が廃止され、その後霍去病が大司馬に任じられることが由来。
後漢光武帝の晩年(51年)に太尉に戻された。
文官として、軍事を司る。

1年安漢公。
4年宰衡に就く。
※宰衡とは・・・
「漢書」によると、商の伊尹は阿衡、周の周公旦は大宰として政権を握った。
王莽にはそれらの官職名をあわせた、宰衡という称号の官職に就かせるというものである。
合わせて、九錫を賜る。
5年3月摂皇帝となる。
※漢平帝は4年12月に崩御したが、後継皇帝を立てず、王莽が、
摂皇帝となった。孺子嬰は皇太子とされた。
8年仮皇帝となる。その後、前漢高祖の霊から禅譲を受けたとして、
王莽は皇帝に就く。



●曹操の場合:禅譲は息子の曹丕で実現。軍権掌握から父子足掛け12年。
九錫賜与から7年。曹操・曹丕が行なった禅譲の手順は、
「魏武輔漢の故事」と呼ばれる。王莽が行なった禅譲を参考にしながら、
禅譲手順をマニュアル化。後々禅譲は基本的にこの古例に則って行われる。
(下記以外に瑞兆の報告や形式的辞退、止む無く皇帝位の禅譲を受けるなど。)

196年10月 司空・車騎将軍 ※大将軍は袁紹に譲る。
曹操が献帝を許昌に迎えたときに行われた叙勲。
208年三公制廃止。丞相・御史大夫を設置。曹操は丞相に就く。
ここで、丞相として軍権を正式に掌握した形となる。
213年魏公となる。九錫を賜る。
216年魏王に昇る。
220年1月曹操死去。
220年10月曹丕、献帝より禅譲を受け、魏皇帝となる。

●孫権の場合:孫権はややこしい。九錫賜与からは8年。
曹丕の屈託のなさが引き起こした九錫賜与が孫権の皇帝即位の根拠とある。

219年関羽の襄陽侵攻を機とした孫権が、呂蒙・陸遜を使って
劉備の荊州領に攻め込む。
結果として劉備は荊州を失陥、関羽は殺される。孫権は劉備と手切れとなる。

220年1月に曹操は死去、220年10月に曹丕は禅譲を受け、皇帝となる。

221年4月魏文帝曹丕に対抗する形で、劉備が皇帝に即位。国号は漢。
荊州失陥の雪辱を晴らすため、関羽の仇討ちをするため、

221年7月に劉備は孫権の荊州領に侵攻。(~222年8月まで)
これがきっかけで、形式上魏文帝曹丕に降っている。
魏文帝曹丕は、禅譲を受けたばかりのこの成果に喜び、
孫権に呉王・九錫を与えてしまう。
この辺りの屈託のなさが魏文帝曹丕の面白さでもある。
孫権の降伏は偽りで信用ならないと、重臣から多々諌められているにも関わらずだ。
一方、孫権の狡猾さは、後の五胡十六国時代以降、
東晋から爵位を得る五胡のスタイルと同様だ。
東晋の皇帝の冊封を受ける限り、敵視されないのである。

魏の重臣の懸念通り、
夷陵の戦いを勝ち切った孫権は、曹丕を裏切る。
劉備との講和を望む。
劉備の諦めの良さも面白い。執着の無さは劉備の魅力の一つだ。
劉備も孫権との修好を望み、劉備・孫権の講和が成立。
孫権は、呉王・九錫を魏文帝曹丕から受けているにも関わらず、
漢皇帝劉備と講和した。
形式上は、魏皇帝の傘下にいた呉王が漢皇帝に鞍替えしたことになる。
皇帝というのは不倶戴天である。その由来は北斗星で、
唯一無二が原則である。
互いに皇帝として認めたのは、1004年の北宋・遼間の講和条約・澶淵の盟まで
存在しない。
孫権の劉備との講和自体が、曹丕との手切れを意味する。

この辺りの孫権の利己主義、狡猾なやり方も興味深い。

当然激怒する曹丕は、孫権に三連戦を仕掛ける。
しかし、曹丕の侵攻は孫権に撃退される。

229年に孫権は皇帝を称す。


●司馬昭の場合:四人並べると大物感が薄れる司馬昭。
九錫賜与→辞退から入っているところがポイント。
九錫賜与だけ見れば、6回も辞退している。
晋王・相国・九錫の三点セットであれば、5回の辞退。
九錫賜与の辞退3回目にして魏皇帝曹髦が激怒し、
司馬昭を誅殺しようとしたのもやむを得ない。
九錫賜与から2年で禅譲。
三点セットの辞退は5年に渡って行なったにも関わらず、
九錫賜与から禅譲までの期間はこの四人の中では最も短期間である。
皇帝以下輿論が魏晋革命を切に求めた証であろう。

255年正月の次の閏月司馬師死去。司馬昭が後を継ぐ。
256年6月九錫賜与されるも、司馬昭は辞退。
 
257年5月~258年2月まで諸葛誕の乱
 
258年5月【第一回辞退】
晋王・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
260年4月【第二回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
 
260年6月【第三回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
 
261年8月【第四回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
 
263年2月【第五回辞退】 晋公・相国・九錫の三点を皇帝より賜与されるも、司馬昭は辞退。
翌10月に早々に漢中エリアを掌握する。
それを受けて、
263年10月22日 司馬昭、晋公・相国となり、九錫を受ける。
 
264年3月19日司馬昭、晋王となる。
 
265年8月9日 晋王相国司馬昭死去。
265年9月24日 司馬昭、埋葬される。
 
265年12月晋王相国司馬炎、魏皇帝元帝から禅譲を受ける。


●最後に補足だが、
諸葛亮は非公式に李厳から九錫を受けるようにと勧められている。
229年のようで、第三次北伐で武都・陰平を制圧したタイミングのようだ。
同年孫権が皇帝を称したので、それを受けてなのではないかと推測される。