歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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西晋成立当初から孤立し始めていた武帝司馬炎を誰が支えたのか。

 

結論として、武帝司馬炎は、政権末期外戚の楊氏に頼る他なかった。

 

それ以外は何故頼りにならなかったのか。 

 

4つのカテゴリーから説明する。

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●親族(宗族と呼ぶ)

自家の利益ばかりを考えた。

●姻族(ここでは外戚は除く)

他勢力から叩かれ、武帝司馬炎から遠ざけられた。

●名族

親族と同様自家の利益のみを追求。

●寒門

力不足。上記三勢力が強く、のし上がる機会もないため。

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子飼いの少ない武帝司馬炎は、

必然、親族、姻族に支援を求めることになる。

 

司馬氏は、司馬懿の兄弟が、司馬八達と言われたころから、

俊英揃いである。

 

司馬炎に禅譲成立の時点では、

当時評価の高かった

親族を下記に挙げる。

 

 

●親族

司馬懿の弟司馬孚を筆頭長老に、

司馬朗家を継いだ司馬孚の息子司馬望、

司馬師・司馬昭の異母弟で司馬炎にとっては叔父にあたる、

司馬亮、

司馬伷、

司馬駿、

それに弟の司馬攸を加えれば、

粒揃いである。

 

265年西晋初封27王

 西晉の武帝 司馬炎 福原哲郎氏著 白帝社から引用)

 

 

 

ただし、彼ら親族は別家を建てており、

それぞれの利益で動く。

また司馬炎よりも年長者が多く、

司馬炎は皇帝と言えど、気を使わなくてはいけない存在である。

 

気を使って使ったにも関わらず、

最終的には八王の乱という形で、各家で激戦となる。

西晋および司馬氏一族の滅亡の原因となる。

 

●姻族

また、姻族には、

亡き司馬師未亡人羊氏の同母弟羊祜、

司馬師・司馬昭の異母妹婿の杜預がいる。

 

中央の重要ポストは、

名族に配慮して振られているので、

羊祜・杜預はつけなかった。

司馬炎が周囲の意見に惑わされて、

適切な評価ができなかったためである。

 

こちらは武帝司馬炎がフルに活かすことができなかった。

 

彼ら二人は、天下に仕える名臣である。

 

決して司馬氏の姻戚だからといって利益だけではなく、

応分の不利益も蒙った。

武帝司馬炎から遠ざけられたこともあった。

 

武帝司馬炎に忠義であったわけではないだろう。

恨みもあったのではないか。

しかし、彼ら二人は筋の通った硬骨漢であり、義臣である。

身を賭して業務に当たったのは天下に仕えるという

古からの価値観を有していた。

 

彼らは本来頼りになったが、

武帝司馬炎は適切な評価ができず、

活用できなかった。

 

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●寒門

姻族の羊祜・杜預、

これに加えて、寒門出身の張華が、

全うに武帝司馬炎を支えた。

 

張華は、魏明帝曹叡の中書・劉放の娘婿である。

魏明帝曹叡が親政独裁を確立するときに仕えた秘書(実際の官名は中書)

が孫資と劉放であるが、その一人の婿である。

 

竹林七賢の筆頭格阮籍に賞賛され世に出る。

正史三国志を著した陳寿の後援者である。

陳寿の才能を認めたのが張華である。

 

武帝の側近と言ってよい存在だが、

各名族の妬みをに受ける。讒言に惑わされた

武帝司馬炎は左遷することもあった。

張華は浮沈の大きい人生を送る。

 

武帝司馬炎は張華すらもうまく使いこなせない。

 

彼らだけが、天下の視点に立って、武帝のことを慮り、

提言してくれるメンバーであった。

 

呉討伐を進言したのは、彼ら三名である。

杜預はこの絶好の機を逃すことは、天命を逃すことにほからないと言っている。

逃すと、これは逃した側に厄災が降りかかるのだ。

 

 

●名族

反対に彼ら以外の主に名族層は、

自分自身の保身のために、呉討伐を反対した。

これ以上の栄達を望まず現状維持がよいのだから当然であろう。

その代表格は賈充である。

賈充は名族の支持を受けているから、このカテゴリーになるが、

本来賈充は、姻族であり、恵帝即位後外戚にもなる。

そして本来は、名臣と呼べる実績も作ったし作れたのだが、

賈充本人がそうなるとしなかった。

 

 

 

西晋司馬氏一族系図

 

 

 西晉の武帝 司馬炎 福原哲郎氏著 白帝社から引用)