歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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王莽が最初の無血革命を成し遂げた。司馬炎は二例目。

皇帝位とは、血統による即位でなければ、

力ずくで奪い取るのが基本であった。

大半が軍人皇帝である。

軍閥として乱世を勝ち残る、

軍人としてクーデタで実権を勝ち取るなど。

 

 

その例外が、

王莽、司馬炎である。

軍隊同士の戦いの結果ではない、言わば無血革命を成し遂げたのは

この2人のみである。

 

前漢 対 王莽=名族=儒家思想

魏 対 司馬氏=名族=儒家思想

という構図について説明したい。


王莽は、

当時の名族の中でトップ。

王莽の血統は、戦国田斉最後の王・斉王建に遡る。

斉王建は秦の始皇帝に最後まで抵抗した戦国時代の王である。

また楚漢戦争時には、斉を復興し、最後には王になった田横がいる。

斉において、項羽にも配慮されるほどの勢力を持っていた。

漢の将軍韓信が軍勢を持って斉を窺うが、その最中

漢王劉邦の使者酈食其が同盟を持ちかける。

田横は酈食其の話に乗ったが、功績を奪われることを恐れた

韓信は斉に攻め込む。田横は、背信行為と断じ、

漢の使者酈食其を煮殺した。

結局のところ田横は韓信に敗れ、国を失った。

田横は食客五百人とともに海上に逃亡したが、

楚漢戦争を勝ち切った劉邦からの降伏要請に応じ、

洛陽にいた劉邦の元に向かうが、直前にして田横は自決する。

以前は同格の王であった劉邦に仕えることは屈辱であり、

また自身が煮殺した酈食其の弟と並んで劉邦に仕えることは大変

恥じ入るものだとしたためである。

これを知った田横の食客五百人は悉く自決し殉死した。

 

こうしたエピソードのある血統の末裔が王莽である。

ここから、

漢のアンチテーゼに相応しい血統で、

儒家思想、徳治政治の理想形の先祖を持つ王莽が

儒家を信奉する貴族・名族らに支持された背景がわかる。

 

そもそもボトムアップの思想を持つ儒家思想を奉じる

名族たちは、法を用いたり、専制君主制を志向したりする

前漢王朝の君主が嫌いなのである。

 

前漢⇄王莽=名族=儒家思想

という構図が浮かび上がる。

 

 

 

現在では王莽を良く言う人はいない。

だが、漢書を著した班固を始め、王莽を支持していた人物は当時

多々いた。

 

後漢光武帝すら、

前漢宣帝をベンチマークすると言いながら、

郷挙里選の際の重要科目を孝廉(孝行と清廉さ)とし、

王莽の路線を引き継いでいる。

孝廉などは、推薦する地方豪族たちが結託すればどうとでも、

脚色できるので、後に梁冀などの佞臣を輩出することになってしまった。

構図は全く王莽と一緒で、王莽と同じく偽善をして世の評判を得るのである。

それを郷挙里選の推薦者地方豪族が結託して、

孝廉の評価の裏付けをした。

 

後漢末の袁紹もこの郷挙里選で世に出るが、

曹操を前に輿論を得るための偽善を行うのみで何もできなかったのは

このためである。そのため袁紹は荀彧などに見限られた。

 

たまに後漢光武帝は王莽の路線を否定し、という記述も見受けられるが、

それは勘違いである。

王莽の路線を否定するのならば、

人材採用に至っては、法を重視し、実績主義でなければならない。

前漢初の陳平のような人材を得る仕組みにしなければならない。

 

梁冀や袁紹の事例からわかるように、

後漢光武帝はそのような法家主義的な人材採用手法を取らなかった。

 

後漢光武帝は、

自身の統治においては、法家と儒家を交えるといった

前漢宣帝のやり方を踏襲したものの、

人材採用に関しては王莽の考え方に倣っている。

 

どうしても偽善者を生んでしまう後漢の郷挙里選。

後漢の皇帝が、親政ができなくなると、途端に偽善者で、

実際の実力のない者が力を握る。

第二、第三の王莽が力を握るわけである。

 

 

これは、儒家政治の理想ではないとして、

より儒家思想に忠実であろうとした清流派官僚が

世に現れる。

それは弘農楊氏の楊震のような、末端の官吏から

三公に這い上がったものたちが中心となる。

儒家思想を奉じながら、実務がわかり、実績もあるというわけだ。

 

これらは儒家における路線対立である。

儒家思想を基本的に支持しながらも、路線における対立なのである。

偽善というと悪い印象があるが、現実の政治はある程度偽善である。

それでうまくいくのであれば、政治としてはありだ。

 

王莽の路線は大きな括りでは認める。

その細かな路線での対立だとも言える。

 

郷挙里選は儒家思想の偽善者を産み続ける。

皇帝は孤立する。

 

そうして後漢末の混乱に陥ったが、

軍閥戦争を勝ち切ったのは曹操であった。

 

曹操は、実力のある軍人である。

また清流派官僚とも渡り合える能吏でもある。

さらに血筋が、宦官の養子の子である。

宦官は皇帝権強化の軸で動く。

 

この由来の曹操は、潜在的な輿論とは逆の皇帝独裁を志向する。

乱世なのでという大義名分がある。

曹操が先陣切って軍閥を拡大、権威付けし、禅譲まで

こぎつけたのだがやむを得ない。

 

しかし、

前漢 対 王莽=名族=儒家思想

という構図はしぶとく生き残る。

 

前漢が魏に変わるのみで、

名族たちの不満は続く。

 

戦時体制という意味で、

曹操が確立した軍人皇帝としての皇帝専制を許してきた。しかし、

魏の国力が回復し、三国間での相対的優勢が明らかになってくると、

上記の構図は復活する。

 

名族は、

当時著名な名族で、最も実績のあった司馬懿を押し立てようする。

 

ここに

魏 対 司馬氏=名族=儒家思想

 

という構図が出来上がる。

 

 

何を名族が嫌がっているのか。

「武帝」が嫌だということだ。

前漢武帝のように散財して戦争をし、

民力を疲弊させるような皇帝専制は嫌だと言っている。

 

しかし、

皇帝は武帝のように皇帝専制を目指したい。

司馬炎も同様である。

 

儒家名族に配慮しながらという構図は、

東晋・南朝に引き継がれる。

 

しかしながら、皇帝専制を確立した北朝の皇帝には敵わず、

最終的に隋の楊堅が中華統一を果たす。