
上記が西晋司馬炎への禅譲前夜の主要役職者である。
魏王朝の朝臣と晋王朝の朝臣である。
実績のわかりにくい人物が多い。
五つのカテゴリーに分類できる。
司馬炎の身内、名族、実務官僚、荀氏、司馬氏与党。
貴族名族ばかりかと思いきや、
案外とバランスのとれた体制である。
司馬氏を軸に、名族に配慮しながら、
やはり皇帝権を確立するための実務派官僚を擁する。
そして、司馬氏の与党を配する。
なお、完全な寒門、すなわち出自が卑しく這い上がってきたのは、
石苞ぐらいである。
●司馬孚・司馬望・司馬攸は身内。
●王沈・王祥は名族。
●鄭仲・賈充・裴秀は、実務派。
彼ら三名が法制・礼制を整えた。
泰始律令は、鄭仲が顧問、車騎将軍の賈充を長に、
荀顗・荀勗・羊祜・杜預らが作成。
264年5月から着手、つまり司馬昭の指示の下、着手。
268年正月に完成した。
賈充らは事実上の玄学清談の徒である。
浮華の徒と呼ばれたものたちの残党である。
皇帝権強化の為にはやはり法家の力は必要なのである。
●司馬懿を推挙した荀彧の出身一族潁川荀氏からは荀勗・荀顗。
彼ら二名は、泰始律令の作成にも参加していることからもわかるように、
博識俊英でもある。
●あと三名は、純粋な司馬氏の与党である。
何曾は、司馬懿以来の司馬氏与党で文官。
石苞は、司馬師に取り立てられた寒門で武官。
陳騫は、司馬昭により軍事の才を見出された武官。
下記に個別に記述する。
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●何曾(199-278年)
至孝として名をはせる。
竹林七賢のリーダーの一人阮籍らを弾劾する急先鋒。
少々事績のわかりにくい人物だが、
司馬懿以来の司馬氏与党であったことが、
西晋成立時に丞相になれた理由のようだ。
正始政変の前から司馬懿の与党であった。
司馬懿が正始政変前に一度引退をした時、
司馬懿に殉じて引退をしている。
正始政変が起きたときには、洛陽を掌握するのに功績があった。
その後も一貫して司馬氏与党として対処する。
●王沈(?-266年)
太原王氏。唐末まで続く代表的名族。
唐の高宗により定められた、七姓十家の一つ。
王沈は、魏皇帝曹髦から、「文籍先生」と称され、
学問上の師であった。
曹髦は司馬昭誅殺を思い立ち、王沈に協力を求めた。
しかしながら、王沈は逆に司馬昭に曹髦の意思を御注進したため、
その功績で、司馬昭により候に封じられる。
輿論からは、不忠だと非難を受ける。
●賈充(217-282年)
この時代の代表的な人物。
名刺史・カキの晩年の子である。
曹爽一派に登用され、
その後司馬氏に乱を企図した李豊の婿であったため、
司馬氏とは疎遠だった。
しかしながら、李豊の娘と離縁したのち、
司馬氏に近い郭淮の姪を後妻に迎えたことが転機を迎える。
司馬師の大将軍府に出仕し、司馬師の評価を得る。
司馬師の死後は、司馬昭の大将軍府にそのまま仕え、
諸葛誕の乱前後の功績により、
中護軍に昇進。司馬昭の意中の後継者で息子の司馬攸に
娘を嫁がせ、後見となる。
司馬氏と姻戚関係を結び、地位を磐石とする。
その後曹髦の乱で、司馬昭への忠義を貫いたとも見える行為、
曹髦弑逆を行い、更に司馬昭からの信は増す。
賈充はこの時点で司馬昭の第一の腹心であった。
しかしながら、司馬昭は中風で急死。
司馬炎に代が代わると、司馬炎が
司馬昭の後継者争いをした司馬攸の舅である賈充は、
司馬炎に、賈充の手段を選ばない突破力、推進力を
を必要とされながらも、徐々に遠ざけられる。
●裴秀(224〜271年)
裴秀は後に河東裴氏と呼ばれ、
唐末まで続く代表的名族のやはり事実上の祖である。
裴秀は、
玄学清談の流れを継ぐ人物である。
毌丘倹の推挙で曹爽の取り立てられる。
一度正始政変で免職になるが、その後司馬昭に取り立てられる。
裴秀は魏皇帝曹髦から「儒林丈人」と呼ばれ、
曹髦の師匠であった。
法制度、礼制に明るい。
西晋の諸制度を整備した。
代表的な古代地図禹貢地域図を著している。
非常に博学な人物であった。
しかしながら、何晏の影響を受けていたのか、
五石散中毒で、47歳で死去した。
族裔には、東晋の裴松之、隋の裴世清などがいる。
●荀勗(ジュンキョク:?-289年)
潁川荀氏。荀彧・荀攸と同族で族裔。
後漢の清流派官僚荀爽の曾孫。母は、鍾繇の娘(鍾会の異母姉)
司馬炎の信頼は厚かったが、
讒言、阿諛追従の多い人物と評価されている。
政敵張華を讒言により左遷させたり、
司馬炎の希望を汲み司馬攸の斉への帰藩事件を起こしたりしている。
羊祜の呉討伐進言に関しては、賈充とともに反対している。
また、賈充の出鎮したくないという希望に沿うため、
賈充の娘賈南風(後に西晋恵帝皇后となる賈后のこと)を
武帝司馬炎に恵帝司馬衷に娶わせるよう進言したりもしている。
西晋成立後に、西晋の混乱のもとを作った人物であり、
最後は武帝司馬炎に嫌われ、左遷されたまま死去した。
佞臣とされるが、文官としての評価は高かったとされる。
●鄭仲
現存する論語の注釈書として最古の「論語集解」を、
何晏、曹羲、荀顗(荀彧の第六子)とともに編纂。
清貧によって世に知られた学者である。
●王祥(185-269年)は瑯琊王氏。
瑯琊王氏は、
魏晋南北朝における代表的名族である。
西晋成立時80歳である。
当時の聖人君子の一人といっていい。
族子には、東晋の丞相王導がいる。
代表的名族、瑯琊王氏の
事実上の祖となるのが、この王祥だ。
王祥は、「二十四孝」(元代に成立)の一人である。
寒い冬の日に、継母のために、肌脱ぎになって、
氷を溶かして魚を求めようとする。
すると突然氷が解けて、鯉が二匹躍り出たという逸話がある。
●司馬望(205-271年)
司馬孚の子で、司馬懿・司馬孚の兄司馬朗家を継いでいた。
●荀顗(?-274年)
潁川荀氏。荀彧の第六子であったが、兄たちが早世したために、
家を継いだ。至孝をもって世に知られる。
司馬懿に才能を見出されたためか、
司馬氏の台頭フェーズから協力的。
毌丘倹の乱では、毌丘倹の正妻が荀氏にもかかわらず、
司馬氏に協力。
叔父甥の関係であった、陳泰にはその姿勢を批判されている。
賈充や荀勗と協同歩調を取り、西晋の混乱のもとを作った。
●石苞(?-272年)
貧しい出自であったが、
中護軍であった司馬師によって中護軍司馬に取り立てられる。
それを端緒に、揚州諸軍事として、寿春に出鎮。
司馬氏与党として忠実な藩屏となる。
西晋成立後は、大司馬となる。
●陳騫
陳矯の次子。
父陳矯は文官よりのキャリアであるが、
陳騫は武官寄りキャリアを積む。
荊州諸軍事として新野に出鎮。
文官関連の職務は苦手だった。
石苞と陳騫は、魏元帝に司馬炎への禅譲を上奏して勧めている。