歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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西晋瓦解のシナリオは賈充の死から始まる。

282年に賈充が死去する。

 

最後は魯公にまで昇った。

曹髦弑逆の実行者のため「荒公」と諡名されそうになるが、

「武公」となった。対呉討伐の総司令官として中華を統一した賈充にふさわしい諡号である。

 

西晋政権の重鎮である

賈充が死去したことで、政権が不安定になる。

 

賈充という人物は自身が望む以上に

存在感のある者になってしまった。

 

西晋は賈充あっての王朝であり、賈充がいなくなるとその命運は尽きた。

それほど重要な存在である。本人は全くその自覚はなかったであろうし、

全く望んでいなかったに違いないが。

 

 

私が、

賈充に着目をしたきっかけは呉討伐の際の

エピソードである。

 

賈充は最後まで呉討伐に反対をした。

しかしながら、

張華、羊祜、杜預らの進言もあり、

また武帝司馬炎自身の希望もあり、

呉討伐の実行が決断される。

 

武帝司馬炎は呉討伐の総帥に賈充を据えようとした。

しかし賈充はそれを拒否する。

 

最終的には

武帝司馬炎が、卿(賈充のこと)が出征しないのなら、

朕が親征しなくてはならないと半分脅して、

賈充を出征させる。

 

それでも

呉討伐出征中に、賈充は呉討伐を中止を上奏する。

 

賈充は何が何でも嫌だったのだ。

 

諸将の活躍により、

呉討伐は成功を収めた。

 

今度は賈充は

身を屈め、武帝司馬炎に対し、

臣の罪は万死に値する、と言って、

卑屈に徹して

事実上武帝司馬炎に許しを請うている。

 

何故ここまで賈充は卑屈なのか。

 

賈充と言えば、

ざっと歴史を流せば、

この当時の権力者の名前として認識するだろう。

 

臣下では最も有名な人物なのではないか。

 

どうやら司馬氏の信頼を受け、西晋成立に

功績があり、

二代皇帝恵帝に娘を嫁がせた。

 

その娘、賈后は西晋滅亡の発端を作った。

 

何とも力強いエピソードだ。

 

しかし、もう少し歴史を深掘りすると、

賈充は卑屈なのである。

 

賈充が卑屈になるは何故なのだろうか。

 

二代皇帝恵帝の舅で外戚、

また輿論が皇帝即位を求める武帝司馬炎の

同母弟司馬攸の舅でもある。

諸葛誕の乱、曹髦弑逆と

司馬氏への禅譲の流れを一挙に進めた

事件の立役者、実行者として

高い功績を持つ。

 

西晋成立後は、泰始律令の制定の長として貢献。

 

実績は十分で、

皇帝の姻族であり、

博識で実行力のある人物だ。

 

卑屈になる理由は本来どこにもない。

 

しかし、司馬昭によって評価されるまでは、

賈充も苦労している。

 

賈充は父賈逵晩年の子で、

賈充が官途に着く前に死んでしまったので、

支援を受けられなかった。

 

何晏に推挙されるも、

すぐに正始政変が起き、免官となる。

さらに、賈充の舅李豊が、

司馬氏への反乱を企図し、

未然に司馬師に察知され、粛清される。

 

反司馬氏サイドに二度もいることになった賈充が、

前途が見えず、非常に落胆したのは想像に難くない。

 

しかし、これは誰の差し金か、

賈充は、郭淮の姪を正妻に娶ることになった。

先述した李豊の娘は、政変のため、

離縁をしたので、その後釜である。

 

これは司馬師が結びつけた縁談だったのではないかと

私は考える。

 

郭淮は魏の名臣の一人で、

雍州方面で長らく蜀漢戦線に携わってきた。

司馬氏、特に司馬懿の麾下で戦っていたことも多々ある。

 

しかしながら、

司馬懿死去直前に起きた

王凌の乱に連座した。

 

郭淮の正妻は王凌の妹であった。

 

当然郭淮の正妻は、王凌に連座して

処刑されるべきである。

王凌は当時80歳であったので、

妹であっても高齢であった。

 

処刑されるべきところ、郭淮の息子たちが

母に殉じるとしたため、郭淮は司馬懿に助命嘆願をする。

 

司馬懿は郭淮の正妻を許す。

 

つまり、

賈充と、郭淮の姪の婚姻というのは、

元々反司馬氏同士の婚姻なのだ。

 

両家とも三公九卿クラスではないものの、

刺史・諸方面総司令官クラスの家である。

 

政権の上位層であることは間違いない。

 

反司馬氏の履歴がある、上級官吏の家同士の婚姻を、

時の権力者が看過するというのは現実的に考えにくい。

 

すなわち、司馬師はこの婚姻を許可、

場合によっては、勧めた可能性が高い。

 

李豊の乱は、司馬懿の死後に起きているので、

この賈充の再婚は司馬師が差配していることになる。

 

何故司馬師はそうしたか。

司馬師は、元々何晏や夏侯玄などと交流があった。

曹爽一派に出入りしており、

そこで賈充とも接点があったのではないか。

賈充に才能があるのは間違いないので、

司馬師はそれを認めていたのではないかと思われる。

 

これにより賈充は息を吹き返した。

 

司馬師の大将軍府に参軍として任官する。

 

これをきっかけに賈充は栄達する。

 

そのため、

賈充のこの後妻で正妻の、郭淮の姪に頭が上がらない。

賈充が侍女を交流を持てば、

すぐに殺し、賈充に対して、私と結婚したからこそ私の

栄達があるとのたまう。

 

この郭淮の姪との間の娘の一人が後の

賈后だが、この母あっての娘だと思わざるを得ない。

 

訳あって、賈充は反司馬氏側につくことになってしまったのを、

司馬師によって拾われた。

 

そう考えると、確かに、

賈充の手段を選ばない果断な姿勢は、

司馬師に通じるものがある。

 

司馬師が立案したのではないかと言われる正始政変や、

目の手術をした後すぐに毌丘倹の乱に出征する

姿は、司馬師の果断さ、実行力を伺わせる。

 

賈充は司馬氏の10歳年下であり、

何か師弟関係のようなものがあったのかもしれない。

 

そうでないと、司馬師が死の間際、賈充に兵権を預け、

司馬昭に後を託すというシチュエーションが考えにくいのだ。

賈充は突然出てきて、突然信頼を得ているようにしか見えない。

由来は反司馬氏であるのに、司馬師に拾われる。

それは何か個人的関係があったと考えるしか説明がつきにくい。

 

これに加えて、何が何でも司馬氏についていかなければならない

賈充は、司馬昭に従って、司馬氏のために働く。

諸葛誕の乱、曹髦弑逆と、司馬氏禅譲への道を切り開く。

 

司馬昭の絶対的信頼を得ることができ、

西晋成立後は、泰始律令の制定リーダーとなる。

 

これ以上ないところまで来た賈充は、

身を守りたくなったのではないか。

 

二度も憂き目に遭った賈充は、あのようなことを二度と味わいたくない、

そう考えるのは不思議ではない。

 

本来、自身の保身のために司馬氏の為に働いてきた賈充。

それが達成されれば、保身に奔るのは当然だ。

 

賈充はだからこそ、自身と逆の方向に行くものを弾劾する。

賈充のことを支持するものは全て抱えようとする。

 

それが、対呉遠征の反対につながったのではないか。

 

司馬師が後を託した弟格の賈充が西晋を創った。

 

賈充あっての西晋と言っても良いのかもしれない。

 

賈充は自分自身の保身のために行った行動が政権のバランスを保つことにつながった。

武帝司馬炎は賈充に遠慮して、皇帝権を濫用せず、

名族の不満は賈充が代表することで吸収することになった。

賈充の博識な知識は、実務派官僚と渡り合うのに十分であり、彼らを掌握することができた。

 

しかし賈充が亡くなると、

遠慮する対象がなくなった武帝司馬炎は皇帝権を用いる。

長らく武帝司馬炎の悩みだった後継者問題を一挙に解決しようとする。

武帝司馬炎は自身の後継者争いのライバルで、

今は息子のちの恵帝のライバルでもある司馬攸を闇に葬り去った。

 

これこそが、

後に起きる楊氏、賈后専横、八王の乱といった

西晋末期の混乱をもたらした。

 

それは、賈充の死がきっかけだったのである。