歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈充と羊祜に影を落とす西晋の呉討伐と禿髪樹機能の乱

西晋武帝司馬炎が、

対呉遠征を企図し始めたのは、

269年に羊祜を都督荊州諸軍事として、

赴任された頃からだ。

 

271年には裴秀が死去するが、

その際に残した建言として呉討伐を進言していることからもわかる。

 

羊祜は長らく、

中央にあって司馬氏の政権掌握、禅譲、西晋成立後の体制構築などに

実績を挙げてきた。

名族泰山羊氏の出身である。

後漢末の蔡邕の外孫でもある。

羊祜の同母姉は司馬師の正妻であり、

広義の外戚に当たる。

羊祜の正妻は夏侯淵の孫で夏侯覇の娘である。

これは曰く付きで、夏侯覇は、

正始政変に反発して、蜀漢に亡命した夏侯覇の娘である。

正妻を娶ったのは夏侯覇の亡命前だが、

亡命後は皆が夏侯覇と絶縁する中、

羊祜は妻を慰め、変わらず遇した。

 

羊祜は、

才能が豊かで、血統も素晴らしく、一族は司馬氏も配慮する名族である。

かつ、謙虚で突出せず、恤民の心があり、傑出した人物である。 

268年に羊祜も携わっていた泰始律令が

完成、施行され、ひとまず王朝としての形を整えた。

 

さあ、これで外征だということで、

当然呉がターゲットになるわけなので、

まずは荊州に羊祜を派遣したというわけである。

 

司馬昭が蜀漢討伐の際に、

出した書面にあるように、

西晋は長江の上流、すなわち益州、荊州から川を下って呉を攻めることを

想定している。

揚州、寿春ではなく、

荊州からがメインの攻撃軍になるはずなのだ。

 

そこに羊祜を当てるということは、

本格的に呉討伐を考えているに他ならない。

 

しかしながら、

269年に羊祜が荊州に赴任するも、

271年には死去している裴秀がわざわざ臨終の場で、

呉討伐を進言しているのは、

呉討伐が既定路線になっていなかったためである。

 

羊祜を赴任させたにも関わらず、

対呉遠征に本腰を入れたいところ、反対したものがいたわけだ。

だからこそ滞り、裴秀はわざわざ対呉討伐をすべしと遺言する。

 

その反対者は当然賈充が筆頭格であろう。

他にもいたであろうが、賈充の反対が確実にあったはずだ。

 

私はこのタイミングで、

武帝司馬炎と賈充の間に確執があったと考える。

 

賈充は泰始律令制定の長であった。

泰始律令を施行して、さあ呉討伐だとした武帝司馬炎に

冷や水を浴びせたわけである。

 

そこで、270年から禿髪樹機能という鮮卑族が

関中を荒らしまわっていた。

 

西晋の関心が、

対呉に向かい、関中に軍事的空白ができたためだと思われる。

関中は長らく対蜀漢戦線の本拠地であったが、

263年に蜀漢は滅亡した。

 

このあたりの兵力を対呉に移したため、

禿髪樹機能が暴れ出した。

 

長年の司馬氏与党で、

蜀漢討伐に功績のあった胡烈は、

禿髪樹機能の討伐に向かうも却って返り討ちに遭い、

胡烈は戦死する。

 

武帝司馬炎は賈充に対して不信感を持っていたため、

都督雍涼州諸軍事として賈充に

禿髪樹機能を鎮圧させることを考える。

 

そこで、

賈充は荀顗の助言に従って、

娘を恵帝に嫁がせたいと上奏する。

 

これにより、賈充は出鎮を避けることができた。

考え方は色々あるが、賈充にとってはこれは

確実に左遷である。

王莽や後に司馬攸が封国に帰されるのと同じ人事である。

 

結果として、

司馬炎は、嫡男で後の恵帝のライバル司馬攸の舅

賈充を幾分かは抱き込むことができた。

 

それはともかく、

本稿における流れとして重要なのは、

羊祜が賈充の関中出鎮反対したことである。

 

賈充はそこで羊祜に対して、

「卿のことを見誤っていた」と言って、

間接的に謝辞を述べている。

 

賈充の出鎮に反対してくれたことはもちろんだが、

何か理由があってそうはしないと思っていたからこその、

「見誤っていた」である。

 

 

羊祜が対呉遠征賛成派であり、

もちろん武帝司馬炎もその成就を願うのだが、

賈充は反対した。

それで賈充は司馬炎の不興を買ったため、

左遷されそうになる。

 

この経緯にも関わらず、羊祜が賈充の肩を持ったことを

指すのである。

 

非常に緊迫感のあるエピソードである。

賈充が羊祜を敵視していたことを物語る。

 

 

おそらく羊祜は賈充の肩を持ったつもりはなく、

賈充が関中に赴任して軍事に当たることは不適格であり、

また中央で適任の仕事があることからだったのではとは思う。

 

なお、賈充は泰始律令制定プロジェクトの長であり、

羊祜はメンバーである。

羊祜は司馬師の外戚にも関わらずだ。

賈充は司馬攸の舅ではあるが、司馬攸は本来司馬昭の後を継ぐ

司馬炎の弟に過ぎない。

しかし司馬昭が司馬攸を後継者にしたいと考えたこと、

また司馬昭が司馬師の急死で家督を継がなくてはならなかった後

賈充が忠義を貫いて仕えてくれたこと、

この2点が事実上人臣最高峰までの栄達を賈充にもたらした。

 

 

 

さて、賈充が関中に行かなかったことで、

対鮮卑・禿髪樹機能が宙に浮く。

 

また、対呉討伐も賈充の強い反対があることから、

ペンディングとなる。

そのため本来であれば、

対呉遠征軍の少なくとも一方の総大将になったはずの

羊祜は10年に渡り、荊州に出鎮することとなる。

羊祜は死ぬまで、都督荊州諸軍事の任にあり、

荊州の統治に当たった。

 

272年には、歩闡(ホセン)の投降があったが、陸抗の前に

羊祜は敗れる。

しかし、

274年に陸抗が病死。

益州刺史王濬により

蜀において、水軍が完成。

王濬は、羊祜の元参軍であり、羊祜配下である。

王濬は羊祜の推薦で益州刺史になっている。

対呉遠征の機は熟した。

 

276年に羊祜は対呉討伐を上奏し、

武帝司馬炎も行いたかったが、

賈充らが関中の禿髪樹機能の乱が収まっていないことを理由に反対。

 

2786月羊祜は同母姉が亡くなりその葬儀のため、

洛陽に帰還。その際に再度対呉討伐を上奏。

しかしながら、27811月羊祜の願いは叶わず

病死する。

 

 

●賈充らが対呉遠征を嫌がったのは何故か。

賈充らは五等爵の賜与などで、

栄華を極めて、保守的になったとされる。

それに付け加えての説明をしたい。

それは、

対呉遠征が成功すると、

その従事者は栄達するからである。

蜀漢討伐成功の際、

鍾会は司徒、

鄧艾は太尉に昇進した。

 

対呉討伐が成功すると、

羊祜らが鍾会・鄧艾と同じく評価をされる。

 

すなわち、賈充らの地位を脅かすことになる。

それを賈充らは恐れた、嫌がったのだ。

 

だからこそ、280年の対呉討伐軍の総大将は

賈充なのだ。

賈充が総大将であれば、対呉討伐成功の暁には、

勲功は揃えることができる。

賈充らの不安はなくなるというわけである。

 

ここで思う、賈充とは一体何者なのか。

西晋の創業者武帝司馬炎や

当代の名臣羊祜すらも、遠慮しなくてはならない賈充。

賈充はそれほど力を持っていたことは間違いない。

 

賈充が曹髦弑逆や諸葛誕の事実上の謀殺など

司馬氏禅譲への道を切り開いたという功績は確かに大きい。

 

しかし前漢高祖や後世の明の朱元璋などは、

創業が成れば、功臣など粛清してしまったわけだ。

 

賈充は建国の功臣以上の存在なのだ。

 

それは、多分に

賈充という存在のみが、

名族や実務派官僚を取りまとめることができたからではないか。

 

賈充はその出自からして名族の一つといってもいい。

賈充は玄学清談の徒で父の影響のあり法にも詳しい。

両方に顔が利く。

司馬氏の姻戚であり、司馬昭から厚い信頼を受けたという

貴重な存在が賈充なのである。

 

彼らの支持が賈充に集まっていたからこそ、

西晋は成立した。

だからこそ賈充の動向が、その死まで

政局に影響を与えたのではないか。

 

だからこそ、

羊祜や杜預といった

司馬氏の姻戚も賈充には頭が上がらなかった。

 

賈充の恐ろしさである。