歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

八王の乱① 極力端的に記す。

非常に登場人物の多い八王の乱。それが非常に短い期間で、混在し、

理解を妨げる。各人とも実績があって高位にあるわけではないので、

人物像も理解しにくい。ここでは、八王の乱を極力端的に記述し、

概論の理解に寄与したい。

私は広義の八王の乱は、291年から311年まで続くと考えている。

291年の賈后陣営による楊氏打倒から、311年の匈奴による

洛陽陥落までである。

ーーーーーーーーーーーーー

外戚楊氏を賈后と宗族が倒す。

賈后は司馬亮に政権を任せるも、

賈后の思い通りにはならないため、司馬瑋を使って司馬亮を殺害する。

賈后にとって用済みとなった司馬瑋は張華の策で、

殺害。賈后が政権を握る。

賈后の皇太子廃替に端を発し、

司馬倫が賈后を倒す。

司馬倫は恵帝から皇位を簒奪するが、

司馬冏、司馬穎、司馬顒の三王が立ち上がり、

司馬倫を打倒する。

皇位を恵帝に戻す。

三王は結束せず、

司馬冏のみが政権を執る。

司馬冏の専横甚だしく、

司馬乂が司馬冏を殺害する。

司馬乂は司馬穎と司馬顒から挟撃されるも善戦、

しかし、

味方の司馬越に裏切られ、命を落とす。

司馬穎陣営の勝利となるが、さらに仲違い。

今度は、恵帝を奉じて司馬越が鄴に司馬穎を攻める。

これは失敗。恵帝は司馬穎に捕まる。司馬越は東方に逃亡。

これで司馬穎陣営の完全勝利かと思いきや、

幽州諸軍事の王浚が鄴を攻撃。

司馬穎は鄴を奪われ、恵帝とともに洛陽に逃亡。

この失敗で司馬穎の政治生命は終わり、

洛陽では司馬顒の将軍張方に従わざるを得ず、

そのまま司馬顒の本拠地長安に、恵帝とともに強制連行される。

司馬顒は東方で勢力を強めていた司馬越との和解を狙うが、

司馬越は拒否。

司馬越は山東の兵を糾合。幽州の王浚との連携し、

司馬顒を破る。

司馬穎、恵帝、司馬顒が

それぞれ306年の10月、11月、12月に死去することで、

司馬越の完全勝利となった。

 

司馬越は、恵帝崩御後、皇太弟司馬熾を即位させる。懐帝となる。

こののち、懐帝と司馬越は対立し、

司馬越は再度大軍を率いて東方へ出奔。その途中で急死。

主を失った司馬越軍は石勒に襲われ壊滅する。

主力軍を失った洛陽の懐帝は、劉曜に襲われる。

洛陽は陥落し、懐帝は囚われ、ここに西晋は事実上滅亡した。

ーーーーーーーーーーーー