歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱③ 司馬倫がきっかけで以後は宗族同士の争い

司馬倫の狡猾かつ巧妙な策謀が賈后を滅ぼす。

 

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賈后がきっかけとなり、

司馬倫が宗族争いへと発展させ、

司馬越が勝ち残ったが、西晋は分裂した。

そこを劉曜と石勒が突き、西晋は滅亡したのである。

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八王の乱が外戚同士の戦いから、

宗族同士の戦いに移るのは、

フェーズ③の304年4月に、

宗族の司馬倫が賈后を打倒したところからである。

 

きっかけは、

賈后による当時の皇太子(愍懐太子)司馬遹(しばいつ。278年-300年)を

廃そうとしたことである。

 

賈后は当然恵帝の外戚として権力を掌握していた。

賈后が恵帝との間に男子が生まれれば、後継者として皇太子に立てられればよかったが、

賈后の四人の子供は全て女子であった。

恵帝の後継者皇太子(愍懐太子)司馬遹は賈后および賈氏とは何の関係もない。

賈后は先帝の外戚楊氏を排除して、権力を握った経緯がある。

恵帝の後継者皇太子(愍懐太子)司馬遹の外戚

外戚は琅琊王氏

正妻は琅琊王氏の出身の王恵風。父は王衍。

王衍は後に司馬越に従って東方に逃げ、司馬越の死後石勒の攻撃により囚われ殺される。

竹林七賢王戎の従兄弟。)

を警戒するのは当然である。

また、皇太子(愍懐太子)司馬遹は聡明であると言い、

そもそもではあるが、皇太子(愍懐太子)司馬遹は賈后に反発していた。

 

この構図であれば、

恵帝の崩御後、皇太子(愍懐太子)司馬遹は、自分の思い通りに王朝を運営するという

意向を持つのはまず確実だ。

賈后が排除される可能性は非常に高い。

こうしたケースは多々ある。

例えば、

前漢の哀帝は即位後自身の外戚を重用し、

先帝の皇后王太后や外戚王氏を排除した。

血生臭い戦いは起きなかったが、栄華を誇っていた王氏は排除され、王莽は左遷され、都から放逐されている。

 

王氏は、先帝の意志、遺詔により権力を握っていたが、

賈后は先帝の遺詔はない。

非常手段に訴えて、賈后は権力を握っていた。

だからこそ弾圧した側から非常手段に訴えられて、復讐をされる可能性を常に孕んでいるのである。

 

賈后には

皇太子(愍懐太子)司馬遹を排除する強い動機があった。

賈后は速やかに皇太子(愍懐太子)司馬遹の排除をした。

この時点では皇太子は廃されたのみでまだ殺されていない。

 

そのため皇太子派が復位させようと、乱を企てる。

しかしながら、皇太子派による賈后打倒が企てられたことから、

動向が変化する。

皇太子派に抱き込まれたはずの司馬倫が、

賈后サイドに企てをリークする。

 

理由は、司馬倫は賈后派であり、

皇太子(愍懐太子)司馬遹は恨みを抱いていたためだ。

司馬倫が賈后一党を打倒しても、功績を評価されないばかりか、

粛清の対象になる可能性もある。

そのため、司馬倫はまず皇太子派の企てを賈后にリークして、

皇太子(愍懐太子)司馬遹を賈后に殺害させる。

 

その上で、司馬倫は賈后打倒の兵を挙げる。

 

司馬倫はこれで政権を掌握し、最終的には皇帝にまでなる。

 

何とも狡猾で、巧みな策謀を司馬倫は行った。

実際にこれらを立案実行したのは、参謀の孫秀である。

 

しかしながら、政権を維持できず、

司馬倫はほかの宗族に打倒される。

太上皇となっていた恵帝が復位。

 

ここから宗族同士の主導権争いという名の内乱が本格化する。

 

 

尚、司馬倫は、司馬懿の子にも関わらず、

学問を修めず、文字を書くことができなかった。

あの河内司馬氏にも関わらずだ。

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①291年3月

外戚楊氏 対 外戚賈后

→外戚賈后の勝利。

 

②291年6月

外戚賈后 対 宗族司馬亮

→外戚賈后の勝利。

 

③300年4月

外戚賈后 対 宗族司馬倫

→宗族司馬倫の勝利。

 

④300年8月

宗族司馬倫 対 宗族司馬允

→宗族司馬倫勝利。

 

⑤301年1月

西晋皇帝恵帝 対 宗族司馬倫

→宗族司馬倫の勝利。司馬倫は恵帝に禅譲を無理強い。

皇帝に即位する。

 

⑥301年3月から4月

宗族司馬倫 対 宗族司馬冏・司馬乂・司馬穎・司馬顒

→宗族司馬冏・司馬乂・司馬穎・司馬顒の勝利。

 

⑦302年12月

宗族司馬冏 対 宗族司馬乂・司馬穎・司馬顒

→宗族司馬乂・司馬穎・司馬顒の勝利

 

⑧303年8月から304年正月

宗族司馬乂⇔宗族司馬穎・司馬顒・司馬越

宗族司馬穎・司馬顒・司馬越の勝利。

 

⑨304年7月

成都王司馬穎(恵帝の弟・第四世代)

を東海王司馬越が恵帝の異母弟・予章王司馬熾(後の懐帝)を

担ぎ出し、打倒しようとするが、一旦敗れる。

 

⑩304年8月

宗族司馬穎 対 宗族司馬顒・司馬越・幽州諸軍事王浚

→宗族司馬顒・司馬越・幽州諸軍事王浚の勝利。

 

⑪305年7月から306年6月

宗族司馬顒⇔宗族司馬越・王浚

→宗族司馬越・王浚の勝利。

 

⑫306年11月

西晋皇帝恵帝死去。

懐帝即位。

 

⑬309年6月以降

懐帝 対 司馬越

 

⑭310年11月

司馬越、許昌に移動。逃亡。

→事実上の西晋分裂。

 

⑮311年3月

司馬越死去。

 

⑯311年4月

石勒に亡き司馬越の軍勢破られる。

 

⑰311年6月

漢を名乗る匈奴の劉聡の指示で劉曜が洛陽陥落させる。

懐帝捕捉される。

→事実上の西晋滅亡。

 

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