歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱④ 司馬越の偽善から始まる利己主義

司馬越の登場が、西晋の命運を決める。

 

繰り返しになるが

八王の乱はまとめると下記の通りである。

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賈后がきっかけとなり、

司馬倫が宗族争いへと発展させ、

司馬越が勝ち残ったが、西晋は分裂した。

そこを劉曜と石勒が突き、西晋は滅亡したのである。

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八王の乱を終わらせ、そうして西晋の命運も終わらせた。

 

司馬越はフェーズ8でようやく登場する。

司馬越は、司馬懿の弟、司馬八達の4番目で、司馬孚のすぐ下の弟、

司馬馗の孫である。

父は司馬泰で、司馬泰の兄司馬權は早世していたので、

司馬泰は、司馬馗家の後継者であった。

 

この司馬泰は、291年に司馬亮が賈后により誅されてから、

宗師の地位にあった。

宗師は西晋のみにあったもので、

公的な官職ではなく、西晋司馬氏一族における私的な地位であった。

しかしながら、皇帝の宗族を取りまとめる存在なので、

当然公的な色合いを持つ。

司馬泰は299年に死去するが、

すなわち、賈后専横の時代、宗族の長として政権を支えたのが、

司馬泰である。

 

尚、司馬泰の死後は、司馬懿の第八子司馬肜が宗師となる。

彼が末弟司馬倫に抱き込まれ、賈后打倒と相成る。

 

話を司馬越に戻す。

 

司馬越は宗師司馬泰の長子であり、司馬馗家の後継者でもある。

司馬越自身も当時の視点で言うと人物評価は高かったようだ。

宗師の子であり、かつ

孝廉で慎み深く、奢侈ではないとされていた。

それは後に裏切られることになる。

 

八王の乱の流れで言うとフェーズ8から話は始まる。

宗族司馬乂(武帝の子)を打倒しようと、

宗族司馬穎(武帝の子)・司馬顒(司馬孚の孫)の両名が戦う。

303年8月から戦いが始まる。

 

司馬乂は洛陽に籠城、

鄴を拠点にしている司馬穎と、

長安を拠点にしている司馬顒は、

それぞれの兵を持って洛陽を攻撃する。

 

当時、司馬乂は武帝の子の中で、

恵帝を除けば最も年長者であった。

すぐ下の弟が司馬穎に当たる。

 

司馬乂は恵帝を擁して洛陽籠城戦を行い、数か月間善戦する。

しかし、そこを東海王司馬越が裏切る。

司馬乂麾下の兵を司馬越は裏切らせ、

司馬乂を捕らえる。そうして、司馬穎・司馬顒陣営に売り渡す。

 

しかしながら、その後の処遇に不満を覚えた

司馬越は、思い切った行動に出る。

武帝の末子予章王司馬熾(後の懐帝)を担ぎ出して、

恵帝を担ぎ上げている、司馬穎・司馬顒陣営

と対立する。

 

司馬越は、後漢後半の人材のように、

孝廉の振りはできる人間だ。

儒教のエッセンスは理解しながら、現実の自欲に活用することができる。

 

ほかの諸王と異なり、儒教の大義名分を知っていた。

 

まずは、3048月に司馬越は宗族で武帝の子司馬穎を滅ぼす。

その後は、司馬顒と対立し、3066月に司馬顒を滅ぼす。

司馬越は、二年かけて逃げ回りながら、情勢変化にうまく対応しつつ、

最終的に司馬顒を打倒した。

 

この段階では、

恵帝を担ぐ司馬顒と、後の懐帝を担ぐ司馬越、という

司馬八達の孫同士で、

宗族の有力者同士の争いとなっていた。

 

司馬越がこの構図にするまでは、

誰が、暗愚な恵帝の代わりをするのか、

誰が、暗愚な恵帝の後継者がなるのかの争いだった。

 

しかし上記では、皇帝を担いだ宗族の有力者の代理戦争となる。

 

ここで事実上西晋は内部分裂を起こす。

 

こうした構図を作りながら、

司馬越は巧みに自身の支持者を増やす。

 

特に重要な支援者は、幽州諸軍事で無傷の軍隊を持つ王浚の懐柔であった。

王浚は太原王氏で、王沈の子である。

 

3066月に司馬顒を倒したのち、

30611月に司馬越は恵帝を暗殺。

司馬越が担いできた懐帝を皇帝に即ける。

 

しかしながら、懐帝は司馬越の傀儡に収まらず、

両者の関係は収まらない。

 

3103月に司馬越は許昌に出鎮、事実上の西晋分裂となる。

3113月に項県にて司馬越は死去、司馬越は権力を確実に掌中できないまま、

その人生を終える。

 

3114月には、

主亡き司馬越の軍勢は石勒に破られ全滅。

3116月には、劉曜により、洛陽が陥落、懐帝は囚われ、

西晋は滅亡する。

 

---【八王の乱の流れ】-------------------------------

2913

外戚楊氏 対 外戚賈后

→外戚賈后の勝利。

 

2916

外戚賈后 対 宗族司馬亮

→外戚賈后の勝利。

 

3004

外戚賈后 対 宗族司馬倫

→宗族司馬倫の勝利。

 

3008

宗族司馬倫 対 宗族司馬允

→宗族司馬倫勝利。

 

3011

西晋皇帝恵帝 対 宗族司馬倫

→宗族司馬倫の勝利。司馬倫は恵帝に禅譲を無理強い。

皇帝に即位する。

 

3013月から4

宗族司馬倫 対 宗族司馬冏・司馬乂・司馬穎・司馬顒

→宗族司馬冏・司馬乂・司馬穎・司馬顒の勝利。

 

30212

宗族司馬冏 対 宗族司馬乂・司馬穎・司馬顒

→宗族司馬乂・司馬穎・司馬顒の勝利

 

3038月から304年正月

宗族司馬乂⇔宗族司馬穎・司馬顒・司馬越

宗族司馬穎・司馬顒・司馬越の勝利。

 

3047

成都王司馬穎(恵帝の弟・第四世代)

を東海王司馬越が恵帝の異母弟・予章王司馬熾(後の懐帝)を

担ぎ出し、打倒しようとするが、一旦敗れる。

 

3048

宗族司馬穎 対 宗族司馬顒・司馬越・幽州諸軍事王浚

→宗族司馬顒・司馬越・幽州諸軍事王浚の勝利。

 

3057月から3066

宗族司馬顒⇔宗族司馬越・王浚

→宗族司馬越・王浚の勝利。

 

30611

西晋皇帝恵帝死去。

懐帝即位。

 

3096月以降

懐帝 対 司馬越

 

31011

司馬越、許昌に移動。逃亡。

→事実上の西晋分裂。

 

3113

司馬越死去。

 

3114

石勒に亡き司馬越の軍勢破られる。

 

3116

漢を名乗る匈奴の劉聡の指示で劉曜が洛陽陥落させる。

懐帝捕捉される。

→事実上の西晋滅亡。

 

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