歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱⑤ 司馬倫・司馬越は皇位を主張できない。

【誰が西晋の天命を受け継ぐかによって、大義名分が変わる】

300年に恵帝の皇太子(愍懐太子)司馬遹が賈后に殺されてから、

諸王は皇太弟になる形で、権力を握ろうとしてきた。

 

しかしながら、争いに勝ち切った、司馬倫と司馬越は、

それができない。

恵帝の弟ではないことはもちろんのこと、

どうこぎつけても天命を受けた太祖司馬昭の血を継いでいない。

 

血を継いでいないのだから、

皇位は受け継がれない。

 

輔弼しかできないのである。

 

そのため両者が皇位につくためにどうしたのか。

 

司馬倫は、

恵帝に譲位を迫った。

これを禅譲と呼ぶのかは何とも微妙なところであるが、

非常手段に訴えないと皇位に手を掛けることはできないのである。

 

太祖司馬昭に天命が下ったと考えれば、

恵帝の正統性は非常に強いが、

高祖司馬懿に天命が下ったと考えれば、

その末子である司馬倫の正統性は増してくる。

それを論拠に簒奪する。

 

繰り返しになるが、

司馬昭は太宗ではない。

天命が下った太祖なのである。

大抵は、太祖の子の誰かが、太宗となり、

その家が本家となる。

 

もちろん例外はある。

後年の金の太祖と太宗は兄弟相続だが、

これは異民族における兄弟相続の習慣に則ったものである。

北宋も、太祖、太宗は兄弟だが、

太宗の相続には大きな疑義がある。

 

時代が下れば、原理原則は崩れてくるが、

漢王朝の正当後継者を自認する、

西晋ではこの考えは根強い。

 

司馬越の置かれている立場を考えてみる。

 

まず司馬越には大義名分の面で、

厳しい点が3つある。

 

司馬越は宗師司馬泰の長子であり、司馬馗家の後継者である。

司馬馗は、司馬八達の4番目で、

司馬朗、司馬懿、司馬孚の次に続く。

 

この家では、司馬懿が天命が下ったと主張しても、

司馬懿の弟の家なので、

皇位を受けるには少々論拠に無理がある。

 

司馬馗は確かに司馬八達の一人だが、

実績が多々後世に伝わる、

三人の兄に比べ、司馬馗は息子が誰なのかぐらいしか伝わらない。

つまり、実績がなく凡庸であったということである。

この家には名声がない。

 

③そして、

司馬馗の子で、司馬越の父である司馬泰は、

宗族司馬一族の長老、宗師として賈后政権を支えてしまった。

西晋王朝に巣食った外戚の賈后に協力したとあって、

大義名分の部分で見劣りする。

 

以上3点に付け加えて、

もう一つ大きな問題がある。

 

それは年齢だ。

 

司馬越の生年は明らかではないが、

恵帝の一つ上の世代の人間とはいえ、

司馬懿の弟の末裔であることを考えると、

恵帝と同世代、もしくは一回りかふた回り年上であったのではないか。

 

以上の理由から司馬越が、

通常の方法で、恵帝から皇位を得るのは非常に難しい。

 

いや、もう少し踏み込んで言うと、司馬越は、皇位を狙ってはいなかった。

上記の理屈をもっとも理解しているのは司馬越だったろう。

司馬越は、私は常識的な人物であり、

結果として八王の乱を戦わざるを得なかったと考えている。

巻き込まれて、自分の身を守る、その結果が、八王の乱の勝者となっただけだ。

 

この時代は身内の乱世ということもあり、絶対権力を狙うしかない。

輔弼で終わろうなどという甘い世界ではなくなっている。

 

絶対権力を狙わないと、

自分がやられるのである。

 

司馬越は八王の乱に巻き込まれたことで、

諸王からターゲットにされた。

 

太祖司馬昭から世祖司馬炎という確固たる天命の継承により、

天命継承権が明確にある、武帝司馬炎の男子たちと戦わざるを得ない。

 

 

 

武帝司馬炎の男子は、

早世した者も含めて、

二十六人もいた。

 

司馬越が八王の乱にメインプレイヤーとして巻き込まれた

303年8月の時点で、

 

宗族司馬乂(277年 - 304

宗族司馬穎(279年 - 306年

呉孝王司馬晏(281年 - 311年)

予章王司馬熾(後の懐帝。284年 - 313年

 

の4人しか生存していない。

なお、彼ら四人は誰一人として母を同じくしていない。

異母兄弟なので繋がりを感じ得ず、単なるライバル同士でしかないことになる。

武帝司馬炎が女色に耽ったつけがこんなところに回ってくる。

 

司馬晏は、西晋最後の皇帝愍帝の父であるが、

彼自身は病弱で眼病を患っていて、政務担当能力がなかった。

 

そのため事実上の3名の争いとなる。

 

まずは司馬越は、司馬乂を司馬穎に売り渡す。

これは、司馬乂側として洛陽に籠城していた司馬越が、

戦況を悲観し、司馬乂を捕獲、司馬穎側に売り渡した事件である。

後に、司馬乂側は善戦していたので、

その余勢が司馬穎打倒を意図し、司馬越も従わざるを得ず、

恵帝を奉じて、鄴にいる司馬穎を攻撃。

これは恵帝の親征である。

この戦いは、恵帝、司馬越側の敗北に終わり、司馬越は東海国に逃亡する。

 

ここから司馬越の自己防衛の戦いが始まる。

 

その後、司馬穎は張方に権力を奪われ、没落。

ここで皇太弟が司馬穎から、司馬熾に代わる。

 

恵帝と皇太弟司馬熾を奉じた長安の司馬顒と、

山東の司馬越という対立軸となった。

 

司馬越サイドが勝利し、

司馬顒。司馬穎、そして恵帝がそれぞれ死去する。

 

 

これで武帝司馬炎の血統は懐帝司馬熾のみとなった。

(補足だが、皇太子(愍懐太子)司馬遹にも男子はいたが、

悉く司馬倫に殺されている。

 

ここまでの流れをみると、

司馬越という人物が自己保身の為に戦ってきたことがわかる。

司馬越視点で見るとそう複雑でもなく、

自分の身をとにかく守る、その視線が見据えた先は、

何だったのか。

武帝司馬炎の血統の根絶やし、それによる自身への禅譲と言いたいところだが、

そこまでのプランはなかったのかもしれない。

とにかく、司馬越の自身の身の安全、権力の維持ができればよかったのかもしれない。

 

しかしながら、

司馬越にとっては、

二十代そこそこの懐帝司馬熾が司馬越の傀儡になれば司馬越の身は落ち着いたのだが、

そうはならなかったのが誤算だった。

懐帝司馬熾は、

中々気概のある、野心的な人物だったと

私は考える。

 

皇帝についてからは、

司馬越を排除しようとしている。

単なる木偶の坊ではないということだ。

 

これが西晋にとっては命取りになった。

 

輔弼で終わることができないこの時代、

皇位という絶対権力を掌中にできない以上、

自分の身を守る為には逃げる他ない。

 

司馬越の封国東海国は泰山の東方にあり、

肥沃で安定している。

また、司馬越に常に従ってきた、

司馬昭の弟、司馬伷家の司馬睿は、

建業に行っており、

東方における基盤は盤石である。

(司馬越の東海国の北に司馬睿の瑯琊国がある。)

 

政権争いに負けたとなれば、

地方に割拠する。

そうして次の機会を窺う。

これは、

司馬穎との戦いに一度負けた際に行った手法であった。

決して積極的ではない。司馬越は英雄などではなく、

ただ気弱な自己保身を第一に考える人物である。

それ自体は批判されるべきことでもなく、

やむを得ないことである。

 

司馬越は揚州方面の兵糧基地項県にて急死する。

やはりこれは建業方面に向かっていた可能性もある。

その後この軍勢は石勒に襲われ、

壊滅する。

 

長江以北は石勒に蹂躙されたが、

長江により江南は守られた。

 

司馬越の遺産は、司馬睿に受け継がれ、

匈奴政権による攻撃で、

洛陽陥落による懐帝の捕捉、

長安陥落による愍帝(司馬晏の子)の捕捉、

を確認してから、

司馬睿は皇位につく。

 

武帝司馬炎の血統が滅びた瞬間であり、

司馬越が待望したものであった。

 

東晋は司馬越の遺産とも言える。