歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈謐二十四友 詳細 ⑥~⑯ 鏐世徴・杜斌・摯虞・諸葛銓・王粹・杜育・鄒捷・左思・崔基・劉瓌・和郁

⑥鏐世徴
⑦杜斌
⑧摯虞
⑨諸葛銓
⑩王粹
⑪杜育
⑫鄒捷
⑬左思
⑭崔基
⑮劉瓌
⑯和郁
について。

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⑥鏐世徴・・・不明。
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⑦杜斌(とひん)・・・
杜預のはとこ。司馬倫に殺される。
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⑧摯虞(しぐ。250年ー311年)・・・
皇甫謐(こうほひつ。215-282年)に師事する。
皇甫謐は黄巾の乱討伐などにあたった後漢の皇甫嵩の曾孫である。
皇甫謐は「書淫」と呼ばれるほど、書物を読み耽り、多数の著書を残したが大半は散逸してしまっている。
歴史書も多いが、面白いところでは、鍼灸の書物も著している。
中国に現存する最古の鍼灸学専門書が、皇甫謐著の鍼灸甲乙経である。全12巻。
そのような経歴の皇甫謐に摯虞は師事している。
武帝・恵帝・懐帝の三代に仕え、九卿(太常・光禄勲)まで昇っている。
摯虞は、懐帝の時、劉曜により洛陽が陥落させられた時流亡し餓死した。
摯虞は『文章流別集』『文章流別志論』という文学選集を編著している。
これは中国における最古の評価評論を含む文学選集と言われている。大半は散逸。
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⑨諸葛銓・・・瑯琊諸葛氏。
蜀漢討伐に参加した諸葛緒の孫。
九卿の廷尉まで昇る。後に懐帝と司馬越が決裂し、司馬越が大軍とともに東方に逃げるが、
これに従軍している。司馬越は項県にて死去、その後石勒に襲われ軍勢は壊滅するが、
その際に諸葛銓も石勒に殺されている。(311年)
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⑩王粹・・・
王濬の孫である。王濬は呉討伐の功労者である。
羊祜に引き立てられ、後に益州刺史に就任。
羊祜の指示の下、蜀にて水軍を完成させる。
羊祜死後の280年呉討伐の際には、蜀から水軍を引き連れて長江を下り呉を攻撃。
都督揚州諸軍事で太原王氏の王渾が呉の主力軍と戦っている間に、王濬は呉皇帝孫晧を
降伏させる。
王粹は、武帝司馬炎の娘・潁川公主を娶った。
八王の乱の際には、司馬穎麾下の将軍となっている。
司馬穎は武帝の第16子なので、武帝の娘の婿である王粹とは義兄弟となる。
潁川公主の母の名前や生年などは不明なので、司馬穎との関連性はそれ以上はわからない。
 
司馬越が八王の乱を勝ち切った後に王粹は魏郡太守となる。
そのすぐあとだと思われるが、307年石勒が鄴を攻撃する。
鄴に出鎮していたのは、司馬越の弟司馬騰であるが、王粹はともに石勒と戦った。
しかしながら、力及ばず、石勒は鄴を陥落させ、
王粹は曹操の作った鄴城三台(金鳳台、銅雀台、冰井台のこと)で戦死した。
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⑪杜育
・・・後漢末・魏の杜襲の孫。
容姿端麗で文才があった。
中国で最も古く、茶について歌った詩を作っている。
「荈赋」という。遅く摘んだ茶のことを詩歌にしている。
この「荈」という漢字は、
日本語としては使う漢字ではない。
荈のピンインは、chuǎn。
 
中国最古の茶の専門家と言われている。
 
八王の乱の中、司馬冏に招聘され、政権に参加。
その後懐帝まで仕え、311年に劉曜により洛陽が陥落された際に殺された。
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⑫鄒捷・・・
文才があった。
司馬倫が恵帝に皇位を迫った際、
恵帝から司馬倫に対して禅譲するという詔書を陸機らとともに鄒捷も作成に参加している。
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⑬左思・・・・
272年ごろ、妹が武帝司馬炎の妃となったため、洛陽に転居。その際に、秘書郎についている。
賈謐の招きに応じて、「漢書」に関して講義をしている。
三国時代のそれぞれの帝都を詠った「三都賦」で有名。
あの陸機すらも認めた。
初めは評価は芳しくなかったが、張華が非常に評価し、名士の推薦をもらうように勧めた。
「三都賦」の序文を皇甫謐に書いてもらい、洛陽の人々の称賛を受けることになった。
「洛陽の紙価を高める」(洛陽為之紙貴)という故事成語がここから生まれる。
意味は、著者の評判が高く、飛ぶように売れること。 
全く官途の伝手もない寒門だったが、張華・皇甫謐・陸機という当代随一の人物たちに
認められた詩人が左思である。
賈謐が司馬倫に殺されたのちは、官を辞す。司馬冏が司馬倫を倒した後の招聘も病を理由に応じず。
303年に司馬顒麾下の将軍張方が洛陽を攻撃した際に、冀州に避難し、そこで没した。
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⑭崔基・・・不明。清河崔氏であるようだ。清河崔氏は、崔琰などを輩出した名門。
元々は春秋時代の斉の卿の一族崔氏。斉の二代目君主丁公を祖とする。
崔杼もこの一族。唐代には五姓七望のひとつとされる。
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⑮劉瓌
・・・不明。
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⑯和郁
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父は魏の九卿廷尉まで昇っている。
299年賈后の意向を反映して、
恵帝の詔書として皇太子を廃す際の勅使を務めている。
司馬倫のクーデター後は賈后を洛陽の金庸城に押し込める際の
使者ともなっている。
和郁は当然賈謐二十四友の一人なので、賈后派であったのだが、
八王の乱の変遷する権力構造の中、
上手く立ち回っていたようだ。
その後も順調にしょうしんする。
308年9月に石勒とオウビが鄴を攻撃した際の守将であったが敗走している。
その後尚書令まで昇進する。
311年に劉曜が洛陽を攻撃する際には、
各地を回って援兵を集めるがその最中に病で死去した。
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