歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈謐二十四友 詳細 ⑰~㉒ 周恢・牽秀・陳眕・郭彰・許猛・劉訥

⑰周恢
⑱牽秀
⑲陳眕
⑳郭彰
㉑許猛
㉒劉訥
 について。

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⑰周恢・・・
詳細は不明だが、
娘は、武帝司馬炎の子司馬遐(273年ー300年)に嫁ぎ、司馬覃を産む。
司馬遐は武帝司馬炎の第13子で清河王。
賈后が司馬亮・衛瓘を排撃した際、
衛瓘を逮捕しに行ったのが当時侍中の司馬遐である。
容姿端麗、才があり、武帝司馬炎から
愛された。しかしながら病弱で、300年に死去。
司馬覃が後を継ぐ。
その後302年に司馬覃は恵帝の皇太子に立てられる。
背景としては、
恵帝の後継者を巡って、恵帝の皇太子(愍懐太子)が
賈后により殺される。その後皇太孫として立てられた司馬尚も302年に世を去ると
恵帝の直系子孫が絶えた。
そのため、恵帝の甥である司馬覃が皇太子として立てられた。
しかしながら、その後八王の乱の中で恵帝の弟司馬穎が政権を握った際に
皇太子を廃される。司馬穎が皇太弟となったためだ。その後、
司馬越が八王の乱を勝ち切った307年、陳顔が司馬覃を
再度皇太子擁立しようと企てるが、未然に司馬越に鎮圧される。
その際に、皇太子司馬覃は洛陽の金庸城に監禁され、
308年司馬越の命令により殺害された。
 
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⑱牽秀
・・・
雄弁で文才があった。
太康年間に順調に昇進をしたが讒言により罪を問われ、
免官になった。経緯は免罪であったようだが、
司馬炎の母の兄弟、東海王氏の王愷との対立がもつれたことによる。
 
後に張華が司空の時に張華からの要請で、
司空付きの長史となっている。
賈謐との交流がありながら、張華の評価もあったことになる。
張昌という流賊の反乱に対して、司馬乂は牽秀を討伐に派遣したが、
鄴の司馬穎のところに逃げ込んでいる。
司馬冏を司馬乂が誅殺した後のことであるから、司馬冏を司馬乂が誅殺した後のことであるから
302年から303年のことである。
司馬乂と司馬穎の対立が深まる中、
牽秀は司馬乂から司馬穎陣営に鞍替えしたわけだ。
 
牽秀は、陸機が洛陽の司馬乂討伐に失敗した際、
司馬穎の指示を受けて、陸機・陸雲らを逮捕・処刑している。
陸機が司馬乂に通じていると司馬穎に讒言した一人である。
牽秀は司馬穎の下で、権力を握っていた宦官孟玖に追随していた。
宦官孟玖は、司馬穎から寵愛されていたが、陸機に個人的な恨みがあった。
父の任官を頼んだが、陸機に断られた。
弟の孟超は、元々陸機と軋轢があったため、この司馬乂討伐戦において、
陸機の指示に従わなかった。
孟超は部隊を率いて単独で動き、戦死してしまった。
このため孟玖は陸機を深く恨み、陸機を讒言し、死に追いやった。
 
この後、司馬穎は司馬乂の籠る洛陽を陥落させ、司馬乂を炙り殺す。
しかしながら、司馬穎は、司馬越・王浚らと対立し、鄴を陥落させられ没落する。
司馬穎の政治生命は絶たれ、代わって長安の司馬顒が権力を握る。
恵帝も長安に遷幸させられる。
 
牽秀はこうした情勢の中、司馬顒の信任を受け、
平北将軍として馮翊(ひょうよく)に駐屯する。
馮翊は関中の東端で、洛陽方面に抜ける出口である。
洛陽から見れば、関中に入るにはこの馮翊を通過しなければならない。
洛陽、中原を押さえる司馬越陣営と対立する司馬顒としては、
この馮翊は関中防衛の要であり、その大任を牽秀に任せた。
 
武官でも文官でも組織の長となって、権限を振るいたかった牽秀としては、
念願が叶ったことになる。
 
しかしながら、司馬顒は弱気で日和見主義である。
司馬孚家の長で力を持ちながらも、政権を摂りたいという願望を持つ
人物ではない。ただ勝ち馬に乗って自己保身を図りたいだけだ。
 
司馬越との対立が激化すると、
司馬顒は司馬越との講和を望む。
司馬顒陣営の将軍張方の首を斬り、司馬越に送って講和を乞う。
そこで、司馬越は将の麋晃らを関中に派遣する。
 
しかしながら、この司馬顒と司馬越のやり取り自体が、
密かに行われたので、牽秀は知らなかった。
そのため司馬越が派遣した将麋晃らは馮翊に牽秀が軍勢を率いて駐屯しているため、
関中には入れなかった。
 
この情勢を見て司馬顒の側近楊騰は行動を起こす。
楊騰は司馬顒と司馬越のやり取りを知っていた。しかし、楊騰は、
以前司馬越の要請を断ったことがあり、司馬顒が司馬越陣営に降った後の自身の
安全は確保されていなかった。
そこで、楊騰は司馬顒の命令と偽り牽秀に戦いをやめさせた後、
牽秀を殺害した。
牽秀のひと時の栄華はあっけなく潰えた。
 
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⑲陳眕
・・・
賈謐二十四友の中で、東晋に仕えることができた人物である。
賈謐二十四友の一人だが、文才については明らかではない。
賈謐が滅びた後から
陳眕の事績が明確になる。
司馬穎・司馬顒が洛陽の司馬乂を攻撃、数ヶ月の攻城戦となる。
その最中、司馬乂陣営の司馬越が司馬乂を裏切り、司馬乂の身柄を捕捉、
司馬穎陣営に売り渡す。
それでこの戦いは一旦終結する(304年1月)。
この前後で陳眕は左衛将軍となっている。いきなりではあるが、
武官としてはかなりの高位である。
当時は司馬穎と司馬乂の戦いは終わったとはいえ、
終わり方が司馬乂陣営の内部崩壊であったため、
一向に融和が進まない。対立が燻り続ける。
亡き司馬乂陣営の将兵は意気軒昂で、
司馬穎陣営に対する反発が強い。
司馬穎もそうした状況を見て、洛陽に入らず鄴にそのまま留まっていた。
鄴にいながら、皇太弟兼丞相として専権を振るう。
事実上洛陽を押さえていた司馬越は
恵帝を奉じて鄴の司馬穎を攻撃する。
司馬越としてはこうでもしないと、司馬越自身の権勢を維持できなかった。
何故なら、司馬乂を裏切ったのは司馬越自身であるからである。
これが304年7月の蕩陰の戦いである。
陳眕は司馬越陣営の将軍として参陣。
しかしながら、この蕩陰の戦いは司馬越の敗北に終わる。
恵帝は司馬穎に囚われる。
司馬越は自身の本拠地東海国方面へ逃亡。
陳眕はというと、司馬穎が皇太弟に立てられる前に、
皇太子であった司馬覃を奉じて洛陽に撤退する。
この後司馬越が八王の乱を勝ち切るが、
内乱は続き、匈奴を初めとした異民族の反乱が激化。
永嘉の乱に至るが、陳眕は江南に逃げることができた。
東晋二代皇帝明帝の際に、
尚書、都督幽平州諸軍事、鎮東将軍、幽州刺史となっている。
その後まもなく死去した。
 
 
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⑳郭彰
・・・
賈后の母の従兄弟(従舅という。)である。
賈后の母は、郭槐(郭配の娘。郭配は郭淮の弟)と言い、
賈充の後妻である。
賈后政権の時には、賈謐と、この郭彰が専権を振るった。
しかしながら、福原哲郎氏の研究によると、
司馬倫のクーデターで賈后や賈謐が殺害された時には既に病死していた。
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㉑許猛
・・・
元康年間(291年ー299年)、すなわち
賈后政権のときに幽州刺史になった。その後の事績は不明である。
魏の許允の子である。
許允は、夏侯玄や李豊らとの交流が深かった。
司馬懿が死去したときに、夏侯玄に対して、
司馬懿が死んで良かったですね、と言った人物である。
それに対して夏侯玄は、
「(司馬懿は)私を友人の子として配慮してくれたが、
子の子元(司馬師の字)、子上(司馬昭の字)が遠慮をすると思うか。」
と言ったエピソードが魏略にある。
侍中、尚書、中領軍まで昇ったが、
夏侯玄を勝手に担いで李豊が司馬師に対して起こして失敗した254年の変に、
許允は連座した。そのため、
許猛は不遇であったと思われるが、
賈后政権に拾われたのである。
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㉒劉訥・・・
事績不明。
人物鑑定眼に優れていた人物。
五世祖は司隷校尉にまで昇った人物である。