歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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賈謐二十四友 詳細 ㉓劉輿・㉔劉琨兄弟 その4・・・劉琨の幽州逃亡から鮮卑段部に裏切られるまで。

劉琨は并州の大半を失った。

 

この後、

匈奴の劉聡は、

劉曜を使って洛陽を陥落させ懐帝を捕らえる、

311年のことである。

直前に懐帝が司馬越と手切れとなり、

司馬越が大軍を率いて、洛陽から離れためであった。

洛陽には守るべき軍兵がおらず、一挙に陥落させられた。

事実上の西晋滅亡はこのときである。

 

劉琨の并州失陥は、西晋に致命傷を与えたとも言える。

 

3131月に懐帝は匈奴により処刑される。

それを受けて、愍帝は長安で即位する。

 

最早この時点で西晋は、

長安のある関中付近と、司馬睿のいる建業のある江南ぐらいしか勢力を維持し得なかった。

後はバラバラと各地に西晋に呼応するのみで、まとまった勢力はない状況であった。

 

絶望的な状況ではあるものの、何とかして西晋は劣勢を挽回する他やることはない。

各地の西晋残党に官職を与え、匈奴への反抗を企図する。

 

その一環として、

劉琨は西晋皇帝愍帝より、

大将軍・仮節・都督并州諸軍事・散騎常侍を与えられた。

 

漢の末裔で匈奴の本拠地并州刺史として匈奴と戦い続けた

劉琨は、西晋残党の中で非常に重要な存在であった。

 

各地にの異民族は漢の復興を旗印に決起する。

その対抗として、漢の末裔劉琨が高官として西晋を補政しているという

見え方は大変重要であった。

おぼろげな西晋愍帝政権にとって、

漢の末裔劉琨が匈奴の本拠地并州で抗戦しているというのは、

政権の象徴として大きな意義がある。

 

しかしながら、特段の成果も出せないまま、

体勢は匈奴優勢のまま時は過ぎる。

316年、愍帝は、

劉琨を司空、都督并冀幽三州諸軍事に任じるという使者を出す。

 

戦況は全く好転せず、

西晋の最後のあがきと言ってよいだろう。

 

劉琨は司空は謙遜して辞退したが、

都督并冀幽三州諸軍事は受けた。

 

劉琨は最後の賭けに出る。

拓跋猗盧の軍勢を乗っ取ることを企む。

劉琨は息子の劉遵を人質として拓跋猗盧に差し出す。

 

この後タイミングよく、

拓跋猗盧が自分自身の後継者争いに絡んで、

長子に殺される。

 

これで拓跋部は分裂。

その一部分だと思うが、

劉遵が兵3万、牛馬羊10万頭を率いて、劉琨のところに帰参する。

 

劉琨はこの兵を持って、317年石勒と戦う。

 

しかしながら、石勒に敗れ、

幽州薊城に逃げる。

 

当時の幽州刺史は、段匹磾である。

王浚が石勒に敗れ死去した後の後任である。

 

鮮卑の段部の出身で遼西鮮卑の左賢王でもある。

 

劉琨は都督三州諸軍事で幽州も管轄であり、

幽州刺史段匹磾は配下に当たる。

段匹磾が上長の劉琨を迎え入れた形である。

 

劉琨は再度段匹磾とともに襄国の石勒を攻める。

しかしながら、

段匹磾の従弟で、石勒に懐柔されていた段末波が戦わず、

そのために撤退することとなった。

 

その後は、

段末波により、劉琨と段匹磾の間に疑念が生じる。

 

そこに、東晋で権力掌握を企む王敦が

割り込む。

王敦は華北で徹底抗戦を行い、名声のある劉琨を邪魔に思った。

王敦は自身への禅譲を考えており、西晋、その後東晋王朝の

大義名分を支える劉琨の存在が邪魔なのであった。

劉琨がこの世からいなくなれば、東晋の権威は大幅に落ちる。

 

華北を失陥し、流れ上皇帝になれた東晋元帝司馬睿に

権威も実権もなかった。

東晋希望の星・劉琨は王敦の禅譲計画にとっては邪魔者でしかなかったのである。

 

王敦は段匹磾を唆し、劉琨を殺害させる。

318年のことであった。