歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬倫と司馬穎の共通項。

司馬倫と司馬穎の共通項。

 

 

司馬倫と司馬穎は八王の乱を勝ち切れなかったものの、

強い勢力を持って八王の乱を戦った。

 

司馬倫は、恵帝から皇位を簒奪し、皇帝にまでなる。

司馬穎は、司馬倫を倒した司馬冏を打倒し、皇太弟になる。

両者とも一度は国権を押さえている。

 

両者が、八王の乱において、強い勢力を誇ったのは、

彼らが、文盲であったことが大きいと私は考えている。

 

そして、彼らが文盲であったことが、

幅広い支持を集め勢力を持ち得ることになるのだが、

それこそが八王の乱が大乱につながった原因と私は主張したい。

 

名族河内司馬氏にも関わらず、

文盲のこの二王、司馬倫と司馬穎。

 

彼らは文盲だからこそ各階層と隔たりなく付き合いがある。

 

司馬倫とその輔佐孫秀との関係性は有名だ。

五斗米道の信仰を通じて、

両者の関係性は出来上がったと言われるが、

元々は、司馬倫が文盲なため、

行政を進めるために漢文を書ける秘書が必要だった。

 

漢文というのは、文法もなく、古典の用例に則って使うものである。

だからこそ、古典の丸暗記が必要で、それで隋以降は科挙という試験で、

どのくらい暗記しているのか=漢文が分かって、漢文がどれほど書けるのか、

というのを確認する。

 

そんなもの、非常に大変なわけで、

支配層の誰もが習得できるものではない。

 

出来不出来があるわけで、

生まれながらにして、支配層に生まれるも文字が書けないという人物は

司馬倫や司馬穎だけではなく、この後ずっと存在する。

 

その人たちが行政を行ったり、中央とのやり取りを

するときに必要なのが、

孫秀のような貧乏書生である。

 

指示を出すのも、指示を受けるのも全てこの貧乏書生に

依存せざるを得ない。

古典を理解していると、解決方法のフォーマットを理解しているケースも多いので、

アドバイザーとしての役割も担うことも多くなる。

 

それに付け加えて、司馬倫と孫秀は、

五斗米道(当時は天師道と呼ばれていた)

を通じた特殊な関係性にあった。

下手をしたら、師弟関係にあったのかもしれないのである。

 

司馬倫が漢文に明るければ、孫秀との接点はなかった。

五斗米道は、貧困民衆のための宗教である。

五斗米道、天師道は後の道教につながる。

日本でも、お寺のおみくじなどは道教文化であり、

我々民衆とのつながりがすぐにわかる。

 

司馬倫という司馬懿の息子という貴人が本来接点を持つものではない。

 

西晋の宗族という貴人司馬倫が、

貧困民衆の宗教に触れる。

 

これが司馬倫の特異性であり、

司馬倫の強みでもある。

 

だからこそ皇位の簒奪という暴挙もできる。

 

賈后政権に与したものもそのまま仕える。

 

それはお互いに許せるということだが、

司馬倫のキャパシティは案外と大きい。

 

だが、それは孫秀との関係性が前提である。

孫秀のキャパシティは非常に狭いので、

それが司馬倫にとって仇になった。

早々に司馬倫政権が倒れたのは、孫秀が過去の恨みを引きずったり、

嫉妬心から他者との軋轢を作ったからである。

 

司馬倫のキャパシティは、

八王の乱を国家単位に昇華させてしまった。

 

司馬倫が登場するまでは、

楊氏や賈后および賈氏、

司馬氏宗族らの貴戚たちの権力争いであった。

 

民衆や地方官吏には大して関係のない話であった。

政治家の派閥が争って、首相が変わっても基本政策は変わらないのと同じである。

 

しかし、司馬倫は、全階級を巻き込んだ。

この司馬倫の強さは、

宗族の王たちの連合を産む。

 

司馬冏、司馬穎、司馬顒の三王連合が

司馬倫を殺害する。

 

大枠で話をすると、

司馬倫の死後、

この三王に、さらに司馬乂、司馬越という人物が加わって、

誰が権柄を勝ち取るかの戦いとなる。

 

恵帝には問題処理能力はない。

恵帝は賈后あっての恵帝であり、

賈后が司馬倫に殺されてしまってから恵帝は権力を振るうことができなくなった。

 

それは、孫秀失くして司馬倫が成り立たないのと同じである。

 

恵帝は権威のみが残る。

その権威を元に誰が権力を振るうかの争いが始まる。

 

三王が司馬倫を滅ぼした後、

司馬冏が政権を握るが、

司馬冏は何の政権運営もできない。

そもそも当時の貴人というのはそういうものなのだ。

ただ、清廉で孝行ができれば評価されるのである。

そうすれば誰かが助けてくれるというわけだ。

これが徳治政治の本質である。

しかし誰も助けてくれない。

誰も登用できない。

危機管理能力も変化対応力もない。

 

司馬冏は孤立する。

 

対して、司馬穎は司馬孚家の司馬顒と手を組み、

司馬冏を潰す。

 

司馬穎は279年生まれ、

武帝司馬炎の第16子で、恵帝の異母弟である。

司馬穎も司馬倫同様文盲である。

 

にもかかわらず、

20歳過ぎで、

司馬穎には人が集まっていた。

というよりだからこそ人が集まっていたのだろう。

 

司馬穎の栄達のきっかけになったのは

盧志との接点である。

 

盧志は名族范陽盧氏の出身で、

後漢末の盧植の曾孫である。

 

当然漢籍にも詳しく、

当然名族として知名度もある。

どの派閥に属するかという問題もあり、

知名度があるからこその軋轢もある。

 

しかし、司馬穎は一切こだわりがないのだ。

 

盧志の意見をそのまま取り入れて、

司馬穎陣営の方針とする。

それは、偶然の産物だが、

まさに「隗から始めよ」である。

 

この貴族名族の時代、西晋時代の反動である。

 

司馬穎は、不遇をかこつ者たちを

偶然にも巻き込む。

 

賈謐二十四友の

陸機・陸雲兄弟も司馬穎のもとに行く。

牽秀も司馬頴のもとに逃げ込む。

異民族も何の考えもなく巻き込む。

匈奴の劉淵も司馬穎は引き込む。

 

司馬穎は屈託がなかった。

 

しかし、司馬乂討伐の総司令官を陸機に任せ、

諸将が不満を持ち、思い通りに動かないことで、

陸機が討伐を失敗すると陸機を処刑する。

 

不遇をかこつ者たちの星であった、

陸機・陸雲兄弟の処刑の衝撃は大きく、

司馬穎はこれで事実上政治生命を絶たれた。

 

名声を完全に失ったのである。

やむを得ない事であるが、ただ文盲であるからこその

素直さ純真さが、ここで仇になっただけである。

 

そうして、

孤立した司馬穎は、自身の本拠地鄴を

王浚と司馬騰に奪われた。

 

彼らは異民族匈奴という強力な味方を持つ司馬穎に対抗するため、。

王浚は烏桓と鮮卑段部、

司馬騰は、鮮卑拓跋部を味方に引き込み、

司馬穎を鄴から追い払った。

 

司馬穎は王浚・司馬騰の攻撃を受けた際に、

劉淵の偽言に騙され、匈奴の本拠地離石に返してしまっていた。

 

司馬穎は匈奴の支援もなく、簡単に鄴を失陥した。

 

こうした歴史の流れである。

 

司馬穎の屈託のなさは、

不遇をかこつ漢人だけでなく、

異民族が八王の乱に絡むきっかけを作ったのである。