歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱⑪ 司馬倫の「簒奪」は決して独り善がりの行為でもない。

司馬倫は司馬允を打倒したのち、

恵帝から九錫を受ける。

これで司馬倫は、趙王・相国・九錫・(都督中外諸軍事)となる。

この三つが揃うことの意味は、皇位禅譲の王手である。 

 

これは王莽、曹操、孫権、司馬昭に続く、史上四人目のことである。

 

司馬倫が宗族であっても

輔弼止まりしかできないので、

皇位を狙うという方向性を取った。

 

短絡的な司馬倫には納得感のある話である。

典礼に詳しくはない孫秀が考えた可能性が非常に高い。

典礼に詳しいと逆にその歴史的背景に囚われて、

いきなりの九錫は思いつかない。

あまりにも唐突過ぎるし、皇位を受けるにしても軽すぎる。

 

にもかかわらず、

司馬倫と孫秀は

恵帝に迫って、禅譲という形で皇位を簒奪した。

301年のことである。

 

禅譲の詔の文章は陸機の作、

嫌がる恵帝のその手から指をねじって玉璽を奪ったのは、司馬威である。

 

陸機は賈謐二十四友の一人で、陸遜の孫、

文人として高名で、旧三国呉を代表する人物である。

なお陸氏は戦国時代の田斉の宣王の末裔である。

 

司馬威は、司馬孚の息子であるが、司馬朗家を継いだ司馬望の孫である。

司馬朗・司馬望家を代表する。家督といってもいい。

 

この両人がメインで関わっている時点で、

決して司馬倫の皇位簒奪が輿論から全くずれているというわけではないことがわかる。

 

一方で、

孫秀の恨みもあって、

金谷園(きんこくえん)にて文人サロンを開いていた石崇や、

潘岳は、殺されている。

両人とも賈謐二十四友である。

 

賈后・賈謐に連なる者でも司馬倫の政権奪取後の態度が異なることもわかる。