歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱⑬ 狭義の八王の乱(301-306年)の各プレイヤーについて

宗族のプレイヤーは司馬倫クーデターの時点でこれだけいる。
①司馬懿の兄弟世代→司馬朗家・司馬馗家、司馬孚家
②司馬師・司馬昭の兄弟世代→司馬肜・司馬倫・司馬伷家・司馬駿家
③武帝司馬炎の兄弟世代→司馬攸家
④恵帝の兄弟世代→恵帝自身・司馬允・司馬乂・司馬穎・司馬晏・司馬熾
 
14プレイヤーである。うち、下記3名はプレイヤーから外れる。
 
本来は④は恵帝がトップとしてこのカテゴリーを領導していく者である。
しかし恵帝は賈后が死んでからは機能不全を起こしているので、
それぞれが独自の行動をし始める。
 
④の司馬晏は病弱で眼病を患っていたので、
政務担当能力がなかった。
そのためプレイヤーとしては実質ノーカウントである。
なお、司馬晏の子が、西晋最後の皇帝愍帝である。
 
また④の武帝司馬炎の末子司馬熾は、
まだ具体的な行動が出てこない。284年生まれなので、300年で16歳である。
まだ成人になっていなかったのかもしれない。
 
ということで、

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①司馬朗家(司馬威)
②司馬馗家(司馬越)
③司馬孚家(司馬顒)
④司馬肜
⑤司馬倫
⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)
⑦司馬駿家(司馬歆)
⑧司馬攸家(司馬冏※司馬師家という見方もできる。)
⑨司馬允
⑩司馬乂
⑪司馬穎
 
の11プレイヤーで八王の乱は争われる。
(司馬伷家は内紛。)
 
そのきっかけは、司馬倫の皇位簒奪である。
 
司馬倫は賈后打倒の言い出しっぺである。
宗族は一つにまとまった。司馬倫は兄で宗師の司馬肜を巻き込み、
宗族として統一行動が取れたのは大きかった。
 
しかしながら、司馬倫は賈后打倒したのち宗族の各家に配慮しながら
政権運営をせざるを得ない。
 
そのような手腕は司馬倫にはない。孫秀にもない。
ということで、司馬允を殺害し、
弾みをつけた司馬倫は皇位を簒奪する。
 
当然ほかの宗族は反発する。
 
そこで、
司馬倫 対 ほかの宗族という
図式が出来上がる。
 
ほかの宗族をまとめたのは、
司馬攸家の司馬冏であった。
 
司馬冏が各宗族に檄を飛ばし、
司馬倫の打倒し、恵帝を復位。
 
その際に司馬朗家の司馬威は、処刑される。
恵帝が強く処刑の意志を持っていたからだ。
恵帝が司馬倫に強制的に禅譲させられた時、司馬威が恵帝の指をねじって
玉璽を奪ったためである。
 
 
①司馬朗家(司馬威)
②司馬馗家(司馬越)
③司馬孚家(司馬顒)
④司馬肜
⑤司馬倫
⑥司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)
⑦司馬駿家(司馬歆)
⑧司馬攸家(司馬冏)
⑨司馬允
⑩司馬乂
⑪司馬頴
 
司馬倫が打倒され処刑、恵帝復位した301年4月時点では、
上記8プレイヤーとなる。
 
なお、司馬倫が打倒され囚われたのち、宗師で兄の司馬肜が恵帝に司馬倫の処刑を上奏、
それを受けて司馬倫を処刑している。
司馬肜はただ清廉なだけで何の能力もないとよく言われるが、
これをやってのけるあたり、只者ではない。
自己保身の権化であり、節度のない人物である。
 
 
※八王の乱の、八王とは
司馬亮、司馬瑋、司馬倫、司馬冏、司馬乂、司馬穎、司馬顒、司馬越
のことを指す。
全て王であり、それぞれ封邑を持つ。
だが、封邑にいるわけではなく、帝都洛陽にいることも多いので、
あまり必要のない情報なのでまずは除いた。
上記は、それぞれ、
汝南王、楚王、趙王、斉王、長沙王、成都王、河間王、東海王である。
但し、例えば司馬顒は河間王であるが、長安に駐屯して軍権を握っていたので
猛威を振るうのである。
司馬冏は許昌において軍権を持っていたので、力を持つのであって、封邑の問題だけではない。
 
八王の乱は上記八王がメインプレイヤーではあるが、
彼らだけで完結できる戦乱でもない。
このややこしい戦乱を、八王の乱とした盧諃(盧志の甥)は秀逸だが、
歴史の理解という意味では、「たくさんの王」が戦乱を起こしたという認識の方がよいと私は考える。