歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬穎政権の仲間割れ 司馬越の後悔〜304年〜

 

さて、司馬越が司馬乂を裏切ってくれたことで、
司馬穎はようやく政権を奪取できた。
【司馬穎政権】-------------------
304年1月28日司馬乂は司馬越の手により、
火炙りに処され、殺された。
司馬乂は見事に督戦し、
寡兵を持ってよく敵を防いだ。
だが、将兵たちにとって、兵糧不足という状況は、
心を苛んだ。
事態が落ち着いた304年3月11日、
司馬穎は、皇太弟、丞相、都督中外諸軍事、
司馬顒は、太宰、大都督、雍州牧、
となった。
何よりも大事なのは、司馬穎が皇太弟となったことである。
それ以外の職名を見ても、
誰が政権首班なのか、誰が軍権のトップなのか、
よくわからない。当然、両者が円満に連合し続けるために
曖昧にしているわけなのであるが。
繰り返しだが、
司馬穎がここで皇太弟となっている。
その前は、司馬覃(シバタン)が皇太子であった。
これは恵帝の子ではなく、甥である。
恵帝の弟司馬遐(シバカ)という、武帝司馬炎の同母弟の家を継いでいた
者の子である。
既に恵帝の血を継いだ男系子孫は絶えていた。
その、司馬タンを廃して、皇太弟として司馬穎を立てた。
しかしながら、政権発足当初から、

 

司馬穎政権 全く支持が得られないその理由:

司馬穎政権は、全く輿論の支持を得ていなかった。
理由は4つである。
①司馬穎陣営の仲違い
②陸機・陸雲兄弟の誅殺
③皇太弟司馬穎の寵臣で宦官孟玖の専横
④旧司馬乂陣営が早まって降伏してしまったこと
 
 

陸機は、一言居士の頑固者、当代一流の文人、
呉の陸遜の孫ということもあり、何かと注目を浴びる
人物である。
そんな司馬穎は、陸機の自陣営の参加を喜んだ。
だが、司馬穎を支えてきた者からすれば、煙たいことこの上ない。
まず、盧志と陸機が反目した。
盧志は范陽盧氏の出身で、
劉備や公孫瓚の師匠であった、
後漢末の慮植が有名である。
元を辿ると、春秋時代の姜斉の侯に連なる名門である。
一方の陸機は、呉郡陸氏で、祖父に陸遜、
こちらも元を辿ると、戦国時代の田斉の宣王が
祖である。
それぞれが、
姜斉と田斉を先祖に持つという、なんとも因縁めいた話が
ここにあって面白い。
当然その意識もあったのだろう。
盧志は陸機に対して、
祖父陸遜、父陸抗を諱そのまま呼び捨てにするという
無礼にでた。
姓+字(あざな)で呼ぶのが当時のマナーである。
姓+諱で呼ぶのは、
主君か、師匠に限られる。
盧志が急速に取り立てられる陸機への反発から、
喧嘩を売ったのだ。
陸機が簡単には折れるわけもなく、
同じく盧志の祖父、父を姓+諱で呼び捨てた。
司馬穎陣営のトップ同士が全く噛み合っていなかった。
また、
陸機は司馬穎の寵臣で宦官の孟玖と対立していた。
孟玖が宦官らしく、と言ったらまともな宦官に失礼かもしれないが、
父の登用を陸機に頼んだところにべなく断られた。
孟玖は当然のごとく陸機を逆恨みした。
陸機が総司令官として洛陽の司馬乂を攻撃した時、
その軍に孟玖の弟孟超が参陣していた。
上記の経緯のため、陸機に反発していた孟超は、
単独行動をし、戦死してしまった。
孟玖は司馬穎に陸機のことを讒言する。陸機が
二心をいただいていると主張。
孟玖は、司馬穎に気に入られていたため、
その伝手をたどってアクセスしてきた人材を、司馬穎に多々推薦していた。
孟玖の怖さを知っている、公師藩(ここに石勒がいる)ら推薦をされた人物たちは、
孟玖に同調して陸機弾劾に賛同。
盧志も陸機を非難したため、
結局司馬穎は陸機を処刑してしまった。
これで輿論の支持を失う。
高名な陸機を殺害したことで、
貴族名族たちに嫌われた。
にも関わらず、
孟玖はそのまま専横をやめない。
司馬穎陣営は政権担当能力がなかったのである。

司馬越たちの後悔

そんな中、
旧対立勢力である、故司馬乂陣営に
再戦の思いが去来する。
司馬乂を騙して殺してしまった。
あの降伏は早かった。
もう少し頑張って抗戦していれば、
司馬穎、司馬顒を撃退できたのだ。
なぜ早まったのだろう。
そのようなことをしなければ、
今のように司馬穎や司馬顒に大きな顔をされずに済んだのに。
 
故司馬乂陣営にこうした思いが去来する。
司馬乂を捕らえて殺害し降伏したのは、
司馬越がリーダーだ。
この思いを、司馬越が叶えなければ、
矛先は司馬越に向かう。
司馬越が早まったからだ。
司馬越が早まって司馬乂を殺さなければ、
こんな惨めな思いはしなかったんだ。
となれば、
司馬越は兵を挙げる他ない。やらなければ自分がやられる。
 
304年7月蕩陰の戦いが始まる。
恵帝を奉じた司馬越は大都督として、
司馬穎のいる鄴を攻撃する。
10数万の大軍であった。