歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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304年7月蕩陰の戦い~恵帝親征の意味とその後~

蕩陰の戦いは歴史上の一つの分かれ目である。

 

 

 

 【恵帝親征の意味】

 

前代未聞の、

皇帝と世継ぎの戦争。

 

 

司馬越がピックアップされるが、

これは恵帝の親征である。

 

恵帝は、

処刑前の司馬冏に憐れみの情を示し、

蕩陰の戦いで恵帝を守って死んだ、

嵆紹の忠義をきちんと理解できる。

 

賈后の忠義も理解できる。

 

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少なくとも恵帝は、しっかりと喜怒哀楽の感情を持っている

君主であった。

 

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だからこそこの恵帝の親征は、恵帝自身も賛同しているのである。

まだ皇帝の権威は失墜しきっていないこの情勢の中、

司馬越が恵帝を強引に連れて行く事は出来ない。

 

司馬越が鄴侵攻の上奏をし、

勅許の元、陛下の親征の是非を伺うという事である。

 

恵帝は弟司馬穎に対して、

憤りを感じていた。

 

それはそうである。

 

先に処刑された司馬乂は、

熱心に恵帝を守り奉ろうと言っていた。

 

それを司馬穎は滅ぼしたのだ。

 

両者とも恵帝の弟である。

司馬乂は恵帝にとって良い弟。

司馬穎は恵帝にとって悪い弟。

 

恵帝はこの判断を確実にできる。

 

しかし失敗し、

恵帝は司馬穎に捕らわれた。

これにより西晋皇帝の権威は完全に失墜した。

 

 

 【司馬越の戦下手】

 

司馬越は、

蕩陰の戦いにおいて、戦下手を露呈した。

 

 

鄴南郊、蕩陰において、

まもなく鄴攻城戦だ、ぐらいの気持ちであった。

 

そこを石超に突かれた。

 

司馬穎を攻めるにあたって、

最も注意しなくてはならないのは、

匈奴を抱えていることである。

 

匈奴は北方の異民族で、騎兵を多く持っていた。

曹操が支配下に置いてからは、

匈奴単于を自身の手元に事実上抑留し、

兵を自由に使うという施策を取っていた。

 

匈奴単于は人質である。

 

八王の乱や蕩陰の戦い当時の匈奴単于は

劉淵である。

 

司馬穎は劉淵を人質として確保、

だから匈奴の兵を自由に使える。

匈奴の兵は騎兵が中心で、機動性が高い。

 

にもかかわらず、

司馬越は、油断をしていた。

 

理由は二つである。

 

・司馬穎が名声を墜していることをみて、

この戦いが容易であると考えた。

・司馬越が司馬穎と戦うにあたって、

何の対策もしていなかった。

 

司馬穎は、中外諸軍事で

西晋の全ての軍卒のトップであるが、

司馬穎が現実的に使えるのは、鄴の将兵である。

 

鄴は、曹操以来の副都の一つであるが、

軍事面で何よりも大きいのは匈奴を管轄下に置いてある事である。

 

司馬越は、司馬穎の成功要因をよくわかっていなかった。

 

司馬越は、

蕩陰の戦いで敗れ、恵帝を司馬穎に奪われるという致命的ミスを犯す。

 

司馬越は、

逃亡する。

 

自身の封国東海国に逃げる。

首府は郯県である。

 

人口の減った三国時代、

曹丕により東の端とされた都市である。

 

恵帝という玉を取られて、封国に逃げる。

後は、地方において孤立して抵抗して死を迎えるというのが

よくあるパターンである。

 

司馬穎は、まずは司馬越兄弟が名声があることを

配慮して、司馬越らに罪を許すので、都に戻るようにと招聘した。

 

司馬穎は、陸機兄弟の処刑から始まり、

恵帝に刃を向けるなど、名声を大きく墜としていたので

輿論に配慮したのである。

 

しかし、司馬越はここで拒否した。

かなり勇気のいる判断である。

 

恵帝を司馬穎に握られている今、

ここで司馬越が司馬穎に歯向かうことは、大義名分に欠ける可能性が非常に高い。

 

しかしながら、司馬越はここで司馬穎に対して継続抗戦をすることを

選んだ。

 

これが、司馬越にとっての大きなターニングンポイントとなる。

 

【司馬越の高い政治センス】

 

司馬越の高い政治センスを伺わせる。

 

司馬越は各地の諸侯に協力を求め、それがうまくいった。

301年から始まる八王の乱において、

檄を飛ばす側に司馬越はなることができたのである。

 

【檄を飛ばす】 【排除の対象】

司馬倫    → 賈后

司馬冏    → 司馬倫

司馬穎    → 司馬冏

 

司馬越が東海国から檄を飛ばすことで、

 

司馬越    → 司馬穎

 

の構図を作ることに成功した。