歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

八王の乱延長戦 司馬越 vs 懐帝司馬熾

 

司馬越の困惑

恵帝を毒殺した司馬熾は皇帝に即位した。
306年12月のことである。
 
司馬越は非常に困惑した。
司馬越は恵帝の方が担ぎ上げるには都合が良かった。
恵帝は扱いやすかった。
 
それは歴史が示している。
賈后以来、最高権力者にとっては扱いやすい皇帝なのだ。
八王の乱という戦乱の成立要件に恵帝は欠かせない。
彼がいたからこそ、キャスティングボードを誰が握るかの戦いを
続けることができたのだ。
賈后、司馬倫、司馬冏、司馬穎、司馬顒、司馬越と、
恵帝の恩恵を連綿と受けてきた。
 
暗愚と言われても、皇帝としての権威を保つことはできる。
人間としての喜怒哀楽はしっかりと持ち得ている皇帝である。
 
最高権力者に害意を示すこともないのだ。
 
これほど扱いやすい皇帝はない。
 
この古代の時代において、
立憲君主制下の首相レベルの自由度がある。
 
司馬越は、その恩恵を司馬熾に破壊された。
 
司馬熾と司馬越の対立が始まる。
 
よく、司馬越の方が司馬熾と対立したと書かれがちだ。
しかしそれは間違いだ。
 
司馬越は本来司馬熾に恵帝のような皇帝であってもらえれば
何の問題もないのだ。
 

司馬越の敵対勢力の司馬熾が皇帝になる


しかし、司馬熾はそうはいかない。
司馬熾は司馬越の敵対者司馬顒に皇太弟に立てられた、
敵対勢力の人間なのだ。
 
常に危険がある。
司馬熾は司馬越という実権者を排除しようと
せざるを得なかった。
 
うまく調和できればそれもよい。
しかしそのような寝技が司馬熾にはできなかった。
 
政治経験が非常に不足しているし、
何よりも若かった。
司馬熾は284年生まれ、即位時にはまだ22歳である。
 
司馬越の生年は不明だが、
306年当時50歳は軽く超えていたはずである。
 
 
司馬越は、
司馬八達と呼ばれる、司馬懿の兄弟を第1世代とすると、
第3世代に当たる。
 
第2世代は、司馬師・司馬昭の兄弟、
第3世代は、武帝司馬炎である。
 
武帝司馬炎は、234年生まれ、290年死没。
56歳で亡くなっている。
 
司馬越は、
司馬懿の弟司馬馗の
孫である。
司馬きの生年は不明。
間に司馬孚がいるが、
司馬懿と一歳違いなので、
そこまで年齢は変わらないだろう。
 
ということで、
祖父司馬きが兄司馬懿と10歳違いと仮定。
父司馬泰は、次男であるが生年は不明。299年に死去。
306年の時点で、司馬炎が死去してから16年。
 
ということで、司馬越が同じく第3世代の司馬炎と10歳年下であったとしても、
この時点で、
50歳を優に超えている可能性は非常に高いことになる。
 
司馬熾から見ればかなりの年長者である。
 
さらに、司馬越は、
司馬馗家の長老で、また306年時点で、宗族の長老でもあった可能性が高い。
 
家を領導し、
政治経験も積んでいる。
 
さらに司馬越は、八王の乱を終息させた経緯からもわかるように、
政治的センスが一番の強みだ。
 
このような相手に、
弱冠22歳の司馬熾が寝技などできるわけがないのだ。
 
八王の乱を終息させた大功労者の司馬越。
衆目は当然司馬越に注目する。
 
一方、司馬熾の立場は、非常に弱い。
さらに皇帝の権威という物自体が、
著しく低下している。
 
恵帝が304年7月の蕩陰の戦いにおいて司馬穎に囚われてから、
皇帝に事態収拾能力がないというのは、
暴露されてしまっている。
 
それに加えて、
旧司馬顒派の司馬熾が身を守るためには、
皇帝権を持って司馬越を攻撃するほかなかった。
 
早速着手したのは、
司馬越兄弟の出鎮である。
 
皇帝司馬熾は、
最高権力者司馬越を許昌に出鎮させた。