歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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八王の乱 簡潔に概説する。「漢民族文明の問題点が全て表出した乱」

 

八王の乱は難しくない。

 

八王の乱は難しい、ややこしい。

これが八王の乱に対する一般的な印象であろう。

 

しかし、そんなことはない。

 

西晋こそ漢民族の王朝としては最後の王朝であり、

その終焉にふさわしい終わり方である。

 

今までの漢民族王朝の問題点のオンパレード。

中華史が大好きな人ならば、

八王の乱は必ず面白い。

 

まずは、八王の乱に関する解きたい誤解。

 

◆八王の乱は八王ではない。

この「八王」という数字に囚われていはいけない。

 

これには二つの意味がある。

〇「八」の意味

まず「八」ではない。

たくさんの西晋司馬氏の諸王たちの争いと考える。

 

広義の八王の乱は、291年から始まり、306年末に終わる。

その15年の間に、出てくる主要な諸王は下記である。

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①●司馬亮

②●司馬瑋

③司馬朗家(司馬威)

④司馬馗家(●司馬越・司馬騰・司馬虓)

⑤司馬孚家(●司馬顒)

⑥司馬肜

⑦●司馬倫

⑧司馬伷家(司馬睿・司馬澹・司馬繇)

⑨司馬駿家(司馬歆)

⑩司馬攸家(●司馬冏)※司馬師家でもある。

⑪司馬允

⑫●司馬乂

⑬●司馬穎

⑭司馬熾

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14家、18王である。

これは私が八王の乱を説明するにあたり、必要と考える18王である。

「●」が名前の前についている王が、八王とされているが、

これだけで八王の乱を説明すると、理解が不足しストレスが溜まる。

 

 

〇「王」の意味

「王」だけではない。

王+外戚が入る。

もっと話を広げて考えれば、彼らが従えていた異民族も入る。

 

 

八が韻が良かったのだろう。

 

由来から言えば、

「八王」の呼称は、司馬穎に仕えた盧諃が著した「八王故事」が出典らしい。

盧諃は盧志の甥。この書物は現在は散逸。

 

耳障りの良い呼称だが、

この意味に囚われると、八王の乱を理解するのに障害となる。

 

定義の問題なので、

盧諃の責任ではない。

 

 

◆八王の乱に登場する諸王の封邑地に意味はない。

 

諸王の封邑がどこなのか、ということに、八王の乱を理解するのに寄与することは

ない。

 

例えば、

成都王司馬穎、

趙王司馬倫、

なのだが、格好が良くなるだけで、それ自体に意味はない。

 

成都王というのは、成都がある蜀郡を食邑、すなわち司馬穎の食い扶持としているのだが、

だからといって、成都の軍隊を動かしているから八王の乱を戦えているわけではない。

ただの食い扶持だ。蜀郡を司馬穎の代官が治めている。

司馬穎が中央で必要な物資を送ってくれる、ただそれだけだ。

果たして司馬穎自身が成都に行ったことがあるのかすら疑問である。

 

司馬倫は、趙王だが、支配するエリアは、襄国を中心としたエリアだ。

古の言葉で言うと、「刑」である。

趙なのに、邯鄲でも晋陽でもない。

これも、司馬倫にとっては単なる食い扶持である。

 

八王の乱において、

大事なのは、

どの軍権を動かせるかである。

どの兵糧庫が使えるかである。

 

司馬穎、司馬倫とも、西晋の副都鄴の軍権を握っていたので、

それで八王の乱を優位に戦っていた。

 

封邑名が入ると、覚える項目が多くなるのに、

八王の乱の理解には寄与しない、逆説的な状況である。

 

 

 

この誤解を解いたうえで、

八王の乱5つの要素を下記に羅列する。

 

◆八王の乱5つの要素

 

〇外戚

そもそも、八王の乱のきっかけは、外戚同士の争いである。

 

武帝の皇后一族楊氏と、

恵帝の皇后一族賈后の争いである。

 

漢民族の王朝に関して、

外戚の台頭というのは常に大きな問題であった。

古くは呂后に始まり、

前漢に終止符を打った王莽は外戚王氏の出身である。

後漢においては、幼帝が多く、常に外戚が政権運営を行ってきた。

それに対して、皇帝が宦官を使って争い続ける、これが後漢末までの

構図である。

 

さらに西晋では、楊氏、賈后に加えて、

賈后死後に立后された、羊氏も政治に容喙する。

この羊氏は、西晋成立の功臣の一人で、三国統一の功労者羊祜の一族である。

 

この皇后羊氏は、後に前趙の劉曜の皇后となる。

 

 

〇宗族

西晋においては、宗族と呼ぶが、いわゆる皇族である。

皇帝の血族を指す。

私の想定だが、宗族は武帝司馬炎家以外の司馬氏を指し、

武帝司馬炎家は別格の扱いだったのだろう。

皇位継承の問題から、こういう区分けがされている。

 

なので、宗族という言葉が生まれた。

ただ、この定義が一般的ではないので、

宗族=西晋司馬氏血族と考えて、差支えはない。

 

前漢の呉楚七国の乱は、

皇族の諸王の反乱であった。

 

三国魏においては、

兄弟間の争いがきっかけで、

諸王に封じた皇族は、

・封国に滞在する。洛陽には居させない。

・官職に就けない。

という扱いを受けた。

魏の皇族は、食邑という食い扶持と王号という名誉は得られたものの、

それ以外は何もできない存在だった。それで飼い殺しと呼ばれる。

 

この反動が、

西晋であった。西晋は、漢民族の理想復古を目指し、

周の時代のように、司馬炎の一族が各地を王侯として治めるという形を取った。

 

とはいえ、魏以来の実力主義は、

各王侯の野心を抑え込めなかった。

 

280年の三国統一は、

復興経済を創出。バブル経済となり、

諸王侯は、成金となった。

 

これが実力主義と結びつき、

八王の乱となる。

 

 

〇宦官

特に後漢は宦官に悩まされたが、

後漢末期の十常侍以外は皇帝に寄生して専横するのが基本形である。

案外と主役にならないのが宦官だ。

八王の乱では目立たないが、司馬穎に寄生した宦官が、

きちんと陸機・陸雲兄弟を抹殺している。

 

〇奢侈と吝嗇

 

184年の黄巾の乱以来、約100年ぶりの

中華統一は復興経済を生み出した。

 

成金となった王侯は、

奢侈と吝嗇にエッジがたった人物が現れる。

 

司馬歆と司馬騰は吝嗇で身を滅ぼした。

司馬歆は樊城の戦いで、

民衆の支持を得ず敗死。

 

司馬騰は鄴攻防戦において、

やはり民衆の支持を得ることができず、敗死。

 

儒教上の徳治政治を行わず、拝金主義に振り切り過ぎた。

 

奢侈は、武帝司馬炎を筆頭に事例は多い。

顕著は、石崇の事績だが、

金谷園のサロンは文化を生み出した。

 

平和から生み出される富がなければ文化は生まれない。

 

 

〇異民族

常に漢民族を悩ましてきた異民族。

異民族を討伐し、従えるこそが中華における英雄の条件でもある。

 

それが、この八王の乱に関連して、

匈奴、鮮卑拓跋部、鮮卑段部、烏丸、氐、羯

と次々と出現してくる。

 

始めは西晋の味方として、

最後は乱を起こし、

中華最後の王朝西晋に牙をむく。

 

 

司馬騰が奴隷として売っばらった異民族・羯の石勒が、

八王の乱に始まる反乱を全て潰し、

華北を統一した。

究極の下剋上を石勒は達成した。

 

これが、八王の乱の結論である。