歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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310年11月司馬越、西晋を見捨てる。~江南への事実上の「遷都」①~

 

司馬越、西晋と懐帝を見捨てる。

 

30712月に丞相となった司馬越は、

文武の全権掌握をしたが、

皇帝懐帝が反抗しているのだから、

内外がまとまりようがない。

 

加えて、異民族の活動が活発化しており、

西晋の中華支配も崩れつつある。

 

そうした中307年からは西晋の異民族との

戦いが中心となる。

 

司馬越が、各地を転戦して、

異民族との戦いとなる。

 

これは旧司馬穎勢力が生み出したものであり、

残党も既にこれに融合していた。

 

生み出したものの代表が匈奴漢劉淵であり、

融合した残党の代表が石勒である。

 

この異民族との戦いは別稿に譲るとして、

司馬越と懐帝の争いは、断続的に続いていた。

 

3096月には

ようやく司馬越が懐帝周辺の側近と、

禁軍武官の粛清、

懐帝の舅王延の処刑などを行なった。

 

だが時すでに遅く、

天下の名声を復活させることはできず、

懐帝の蠢動を止めることもできなかった。

 

それで、

31011月、

司馬越は洛陽から総勢10万人の軍勢及び

主要な士大夫を引き連れて、

南東に下がる。

 

それは、許昌から潁水を下る道であった。

 

この道は寿春にたどり着くが、

その道すがらの

陳郡の項県に駐屯する。

 

司馬越は、この行軍の前月、

31010月に天下の兵を徴兵した。

これは全く集まらなかったので、

司馬越の名声が地に堕ちたと良く言われる。

 

これは、というよりも、西晋自体の統治が崩壊していたと見るべきである。

 

何故なら、この後、空っぽになった洛陽は、匈奴の攻撃を受け、

抗戦することもできず、陥落するのだから。

 

一方司馬越のこの行軍は10万の兵を率いることができた。

また主要な士大夫が従軍してことからもわかるように、

輿論は司馬越を支持していたのだ。

 

司馬越が西晋懐帝を見捨てたことすら、

これは輿論の支持を得ているのである。

 

司馬越の行き先は江南

 

さらに重要なことに、

司馬越は、どう考えても江南に向かっているのだ。

 

項県の先は寿春である。

 

そして寿春の南は、長江を超えて建業である。

 

そこは瑯琊王司馬睿が治めている。

常に司馬越と共同歩調を取ってきた王である。

 

これは、司馬越の事実上の遷都である。

 

異民族と動きが活発な華北から一旦離れて、

江南に割拠し、異民族との戦いに備える、

という司馬越の戦略である。

 

しかし、司馬越が3113月に項県で病死してしまったため、

その計画が遂行できなかった。

 

ここで司馬越軍は足止めを食ってしまったため、

石勒の追撃が間に合ってしまい、

この軍勢が惨殺されるという悲劇が起きる。

 

もう武帝司馬炎家を支えない。

 

自分たちで自立する。

これは司馬越による、その意思表明であった。

 

後に司馬睿は東晋として自立するが、

これは司馬越が打ち立てた王朝とも言える。