歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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司馬越の行き先は建業である~③その理由を地図から辿る~「310年11月司馬越江南遷都大作戦」

この軍勢は、軍隊ではない。
貴族の護衛である。
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①政治情勢、
②軍隊の中身

から、この310年11月の司馬越の洛陽離脱が
江南への逃避行であることを解いた。

今回は、
地図から辿りたい。

まず下記の地図を見て欲しい。

洛陽から項県への道

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司馬越は、
簡単に言うと、洛陽を出て、
この項県というところに行っている。

行ったところで総帥司馬越が病に罹り、
項県に駐留せざるを得なくなったというのが、
事実だ。

司馬越がすんなり病死かどうかはわからないが、
ここでは論じない。

 

話を戻すと、
洛陽から項県に向かうには、
南東方面に向かうことになる。

 

項県は、豫州の州治(県庁所在地とほぼ同義)陳県の南である。
豫州である。
古の陳国の領域である。
洛陽から見るとだいぶ南に下がっている。

当時の街路は全てが定かであるわけではない。

洛陽から項県の行き方を探ってみる。

 

まず、洛陽から出て東に向かう。

滎陽に辿り着く。

ここでふた通りの道に分かれる。

①南に下って、古の新鄭(鄭の都)を通過して、
潁川郡の許昌に出る道。

307年の司馬越四兄弟出鎮の際、
司馬越は許昌に出鎮した。

ある程度の配下を残していたかもしれない。
また、ここは西晋の副都であり、
軍隊も以前は多数駐屯していた。

これらを回収した可能性は大いにある。

これら軍隊を回収して、
潁水沿いを東下すると、項県に到着する。

②もう一つは、
滎陽からさらに東に進み、
陳留郡の現在の開封市(当時の開封とは場所が違う。)で、
南に下る。

これは運河である。
真っ直ぐ南に下がると、
陳県にに辿り着く。

さらに南下して項県に辿り着く。

やはり、西晋の最高権力者である司馬越が、
西晋の財産を捨て置く可能性は捨てがたいので、やはり、
①の方が都合がよい。

許昌で軍卒を補充して、東下した。

これが結論である。

項県からの行き先

司馬越が311年3月にここ項県で死去してしまうので、
ここから東海国郯県を目指すのだが、
下記を見て欲しい。

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東海国に行くには北東に上らなくてはならない。
ざっと項県から右上に線を引くと、
交差する線が多数ある。これは河川である。

 

当時の街路、水路と、現在の街路、水路が混在しているが、
はっきりとわかるのが、水路、すなわち川が多いことがわかる。

交差しなくてはならない。
つまり渡河をしなくてはならないのだ。

この「軍勢」、ではなく、貴族の護衛集団は、
女子供はもちろん家財道具も持参している可能性が極めて高い。
金銀財宝の類も含めてだ。

私が、この司馬越東下は逃避行だと断じていることもあるが、
ちょうど司馬越が洛陽を出た直後、
撃退はしているものの、
劉粲(匈奴漢二代皇帝劉聡の子)と石勒が洛陽を攻撃しているから、

ということも家財道具、金銀財宝込みの「軍勢」と言える理由だ。

 

これは事項に譲るが、
洛陽の攻撃を察知して、
懐帝を放置して逃げている軍勢である。

家財道具なども含めての逃避なのである。
疎開である。

それを持っての渡河である。

これは大変難儀なことである。

 

貴族たちは自分の手を汚さない。
というより、うまく物を運びことすらできない。
泳ぐこともできない。大量の物資を人足という貴族の物が運ぶ、

それがこの集団の正体である。

 

これは馬鹿にするものではなく、
当時はそういうものだということだ。

 

なので、この大量の渡河を伴う、

この項県から斜め右上に行く、北東移動は事実上不可である。

となれば、運河を辿って北上し、
陳留郡の現在の開封市に行き、
そこから東に向かうことが想定される。

まず
沛の蕭県に辿り着く。ここは、305年の司馬越が司馬顒・司馬穎勢力に
反抗した時に、出張った場所である。

その後、
徐州州治の彭城、
軍隊の駐留する下邳、
下邳から北上し、やっと東海国郯県である。

下邳は、司馬越が司馬顒・司馬穎に反抗した時に
まず襲った場所である。

下邳は、
司馬楙という司馬朗家の人物が
都督諸軍事として駐留していた場所である。

その後、司馬伷家の司馬睿に任せて、
司馬越は中原、洛陽に出張って行った。

東海国の首府郯県は、
項県はこのように大分遠い。

元々の目的地とは考えにくい。

ということで、
洛陽⇆東海国郯県というのは、

洛陽、滎陽、今の開封、蕭県、彭城、下邳、東海国郯県という
道を使うべきで、
そもそも違ったルートを取った、この司馬越の集団は、
東海国に向かったものではないことがわかる。

さらに付け加えると、
項県からの北上は遡上である。
河の流れに逆行するので、時間も労力もかかる。
普通はしたくない道だ。
また敵対勢力の苟晞に近づくことにもなる。
懐帝は苟晞に対して司馬越追討の密勅を出している。
これを司馬越が知らなくとも、
一触即発だった苟晞のいる青洲に積極的に近づく道は考えにくい。

 

司馬越の行き先、その答え

 

さて、行き先はどこなのか。
下記を見て欲しい。

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実は目と鼻の先が寿春なのである。
項県から潁水を下っていく、
つまりそのままどんぶらこと下っていくと
自ずから寿春にたどり着いてしまうのである。


寿春に辿り着くと、
南東に方向を取って、
合肥、長江を越えると建業である。

そこには、
瑯琊王司馬睿が都督諸軍事として、
エリアを管轄している。

ここは下記の理由で逃げ込むのにうってつけの場所なのである。

呉の諸臣も協力体制を取っている。

三国呉は、揚州、荊州を支配し、
20万人の軍卒を養っていた。

この司馬越が率いる10万とも20万とも言われる集団を
養えるエリアである。

寿春から先は湿地帯となり、
さらに長江という天然の濠がある。

華北では匈奴が跳梁跋扈しているが、
ここは騎兵が使いにくいエリアなのである。

建業は華北平原の南端であり、
南には山岳地帯があって背後を取られることがない。

態勢を立て直すには格好の場所である。


前項にも書いたが、
この軍勢は貴族の集団である。
司馬越に名声があったとしても、
戦いにいくだけでここまでの人物たちが揃うことはない。

この建業逃亡ぐらいの企画がなければ、
ここまでの人間は従わない。

洛陽を離脱した司馬越の行き先は、
地図から見ても、江南の建業しかあり得ないのだ。