歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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「鄴」エリアの重要性は商王朝から~鄴の歴史①~

 

鄴の重要性は商王朝から始まる。

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(引用元:山川世界史総合図録  著者 成瀬 治 佐藤 次高 木村 靖二 岸本 美緒 桑島 良平 山川出版社)

 

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夏王朝に至るまで

 

ぽつぽつと華北平原に人間が現れた。

 

南の方から、

湿地帯や河を渡って、

黄河まで辿り着いたものたちがいた。

 

とはいえ、ただっぴろい平野で黄河のそばに

住むのは不便である。

 

洪水は起きるし、

木がないと燃料に困る。

 

山と河に囲まれたエリアがふさわしい。

そこが洛陽盆地だった。

 

洛陽盆地は、ちょうど黄河を南北に渡れるエリアで、

人々の往来も徐々にでき、交易の場所となった。

 

これが夏王朝である。

 

部族の定住レベルである。

 

 

北狄の侵入

 

夏王朝の繁栄は続いた。

 

だが、北方から異民族の侵入があった。

 

北方とは、後に幷州と言われるエリアだ。

太行山脈の西側にある山西高原である。

 

彼らは馬に乗る。

移動力、戦闘力に長けている。

 

彼らが、峠を越えて洛陽盆地に攻めかかってきた。

 

彼ら異民族(北狄)は、弱肉強食の世界で、

物を取ったり取られたりの文化である。

 

日常的に獣相手に狩猟をするが、

それが人間に代わってもやることは変わりない。

 

そうして、商王朝が夏王朝にとってかわった。

 

商王朝が都に置いたのは、

安陽、朝歌である。

ここは、後の邯鄲や鄴の南に位置する。

 

太行山脈の西、山西高原から峠を越えて、

東に抜けたところに本拠を置いたのである。

「鄴」エリアの利便性

この邯鄲、鄴、安陽というのが、

山西高原から中原に入った場所にある。

 

ここは、山際にあり、河川の洪水の被害を受けにくい。

中原の農耕文化の産物を集積できる。

穀物が最大の収穫物である。

山西高原の狩猟民の産物もすぐにここまで移動できる。

馬、毛皮など。平地では決して手に入れることができないものだ。

 

●●●●黄河流路の変遷は下記を参考●●●

www.rekishinoshinzui.com

これら邯鄲、鄴、安陽など鄴周辺エリアは、

中原、山西両エリアを掌握するには

非常に便利な場所にあるというのがわかる。

この場所の重要性は、隋唐になるまで続く。

なお、

隋唐以降は世界帝国化するので、この地政学的なメリットは、

ミクロになり過ぎてしまった。

現代の日本で、箱根が景勝地にしかならないのと同じである。

 

 

西は山、東は黄河に囲まれた天然の要地。

西から馬の補給を受け、東は中原の農耕文明の恩恵を受ける。

 

この要地の恩恵を受けた王朝は数多くあるが、

その端緒が商王朝である。

 

やはり繁栄を誇ったが、

徐々に文化という名の贅沢に溺れ、

戦闘力を失った。

 

そこを関中の周に攻撃されるのである。