歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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「鄴」エリアの埋没~周王朝における国家観醸成過渡期の中で~鄴の歴史②

 

●鄴の没落~周の時代に国家観が醸成された~

 

長らく中原及び山西高原の覇者として君臨していた

商王朝。その中心は「鄴」エリアであった。

安陽、鄴、邯鄲。

 

しかしながら、これが農耕文明の凄さか、

どんどん

堕落していく。

人が集まり、開墾され、どんどん農耕が進んでいく。

徴税により、物資が集まり、楽しい宴会も毎日だ。

快楽に溺れることができる、そんな環境に人間は堕落していくのである。

 

少なくとも、馬に乗るようなスポーツはしなくなるのが、人間の常である。

 

 

そこで登場するのが、

周王朝である。

周は渭水盆地(関中平野)に本拠を置く。

 

周りを山々に囲まれ、真ん中を渭水という河が通る。

 

山西高原に似た恩恵を被ることができるエリアである。

 

周は、商王朝と対立し、中原で牧野の戦いという大戦を行い、

勝利した。

 

周は、商王朝が中原に君臨する前の状況に非常に似通っていた。

騎兵を操り戦闘力と移動力が非常に高かった。

 

しかしながら、周は本拠を中原には移さなかった。

洛陽や、鄴・邯鄲・安陽には移さなかった。

 

この当時には、それぞれの部族の定住地の認識が出てきているので、

周は自身の本拠渭水盆地を捨てがたかったのだろう。

 

ということで、

渭水盆地の本拠を保持しながら、

中原にも本拠を作る。

 

商の遺民を移して、

洛陽盆地に成周を作った。 

 

両王都制である。

 

これで鄴エリアが一旦没落する。

 

周王朝も、夏や商と同様の構図で、

洛陽の交易権を得ることで、

繫栄を誇る。

 

 

しかしながら、

堕落の方は、商とは少し異なった。

周は一気に滅びなかったのだ。

 

●「周」という仲間意識

 

堕落をして、戦闘力を失ったのだが、

周王朝の時代になると、文明は発達し、

都市国家としての考え方が出てきた。

 

今までは部族が定住するぐらいの定義で、

各部族間で仲良く交易しましょうぐらいの感覚だったのが、

変化してきた。

 

各都市が周に所属しているという感覚を持つようになる。

 

これは、周が中原の覇者となったときに、

王の身内を各地域に分封したからだと私は考える。

 

各エリアの支配者は、周王に連なる者で、

周の分家のような扱いだ。

 

これは周の出身部族、後に羌といわれる部族の文化だったのだろうか。

 

周は堕落したのだが、

その周の分家の支持を失うほどではなかった。

血統を通じて連帯感があった。

夏や商は、各部族の連合なので、力を失ったら従わないよ、である。

 

 

●両王都制(複都制)の効果

 

周自体は没落したが、

周の分家の支持はまだある。そんな状況で、

渭水盆地の王都鎬京が攻撃を受けた。

 

周王が異民族犬戎の怒りを買ったからである。

 

中華の歴史上、これが異民族という概念の初出ではないかと思う。

 

 

犬戎の攻撃を受けた、周王は殺され、王都鎬京は破壊された。

 

しかしながら、周の分家、つまり諸侯のことだが、

彼らの支持を周は失っていなかった。

 

現実問題として、彼ら諸侯は周の権威で統治を行っていたので、

周王というのは必要な存在なのである。

 

権威という概念が出てきているところが、

部族から都市国家へ発展していく、過程が見える。

 

部族でまとまるのではなく、

国家単位でまとまるということである。

そのまとまりの源泉は周王の権威ということになる。

 

周王朝の各諸侯は、各地に都市を作った。

それは土くれの壁に囲まれたエリアで、

交易所となった。

 

特に国防上の配慮はなく、

交易のしやすい平地が選ばれた。

 

水路があったほうが舟に乗せて物資を運べるので、

河の近くが選ばれる。

 

この都市を中華は「国」と呼ぶ。

 

周りのくにがまえは、土くれの壁だ。

中に玉がある。財宝の象徴である。玉は、現代で言う翡翠のことだ。

 

この都市は、交易を目的として作られている。

交易所と物資を守るために防壁がある。

 

しかしながら、自ずから河に近い平地が選ばれるので、どうしても軍事上防御に弱い。

それが中華の都市の弱みである。

 

なお、このことに日本人は考えが及びにくい。

日本人にとっての城は、

大坂城、江戸城のような要塞であり、

春日山城や岐阜城のような山城要塞である。

 

軍事拠点として城を作るのが日本である。

つまり戦い前提なのである。

 

キッシンジャー・毛沢東会談で「獰猛な民族」と言われた我々日本人だが、

戦い前提で城を作った歴史を考えれば言われても仕方がない。

 

一方、中国は交易、すなわち商売前提の都市、城壁であるので、

本来は城ではないのだろう。

 

戦うために造ったのではないのである。

 

少し話が逸れたが、

 

周王を各諸侯は奉じて、洛邑に周王を迎え、

中原国家として再出発する。

 

しかし、洛邑に腰を落ち着けた周王には

既に騎兵という戦闘力もなかった。

軍事力がないと、強制力が働かない。

また、直轄領も渭水盆地を失ったことで、激減していた。

富がない。

 

各諸侯は自分たちの領地を持っている。

なお、領地の中心は「国」という名の都市で、

その周辺も統治するので、領地となる。

 

なお、

何か現代のように、線引きをされたエリア内が全て領地だという概念とは

全く異なる。

点と点の支配であることに留意したい。

諸侯が治める都市のそばに、諸侯の支配を受けない異民族がいるのは普通であった。

中原にも異民族は当時多々いたのである。

 

各諸侯は保有する都市を中心に領地を持っているので、

富がある。

その支配のために、周王の権威を利用してきた。

 

今は実態がなくなりつつあるが、

やはりその権力の源泉である権威を変更することは、

大きな社会変革を伴うので、相当な必要に迫られなければやりたくないものだ。

 

ということで、

権威として周王を持ちあげつつ、

各諸侯がやりたい放題やり始めたのが春秋時代である。

 

すぐに周王朝が取って代わられなかったのは、

周王朝としてまとまっていた

両王都制

が理由だが、

より大枠で考えると、部族から都市国家へと発展している段階というのも大きい。

 

●抽象的概念「周」という権威の誕生

 

中原を100の諸侯がそれぞれ都市を治めていた。

その治め方は周王という権威を利用していた。

周王朝の血筋だぞ、周王朝の家臣だぞ、という具合である。

 

犬戎の攻撃により

周王朝の実態が無くなったのだから、

各諸侯が、夏にとって代わった商のように、

商にとって代わった周のように、ならなかったのは、

周の権威の下統治していたからである。

 

周を裏切れない。

裏切って、軍事的に圧倒することは可能だけれども、

その後が想像がつかない。

 

いやここまで考えが及べばよいが、

権威という伝説はすごいもので、

利用している当事者も徐々に毒されていく。

 

周王朝が中原の覇者になった当初、

管公などの反乱があったが、彼らは権威に毒されていないから反乱し得た。

 

ただ、周王の親戚ということで、治めるというロジックで、支配する、その意味をわかっていたからだ、

利用するもしないもこちらの勝手ということである。

 

初代はそれでもいいが、100年、200年とたっていくと、

周王の権威が当たり前になる。

初代が利用した権威が、子孫にとっては動かしがたい基盤となってしまうのである。

 

そうなると、何か自然と周王は崇拝しなくてはならない、庇護しなくてはならないと

なるのだ。

 

それが春秋時代という時代の特徴である。

 

もちろん、そんなの知らねえという諸侯がいたのは事実だ。

 

そうした現実的な諸侯は自己の権限を伸ばした。

鄭荘公は春秋時代におけるその端緒である。かつ、典型的な事例でもある。

 

 

しかしそんな鄭荘公でも、

周王の権威を越える形を見出すに至らなかった。

 

そこまで都市国家の統治手法は発展していなかったのである。