- ●周王の権威を排除しきれない鄭荘公
- ●春秋時代の秩序維持の枠組を作った斉の桓公、それを受け継いだ晋の文公とその子孫。
- ●晋により、鄴エリアの重要性が復活する。
- ●都市と都市という、点と点を複数保有することから、国家としての体を成していく。
鄴エリアの復活は三晋によって成る。
西周の成立で鄴エリアが没落してから、勃興するまでを歴史の流れから説明をしたい。
これは同時に西周から春秋時代における、都市国家から領域国家への発展への歴史とも重なる。
●周王の権威を排除しきれない鄭荘公
周を事実上の盟主として、
華北平原に都市が勃興していった、西周時代。
西周時代において、周王は権力と権威を備えていたが、
BC771年に周は犬戎の攻撃を受け、一度は滅びる。
しかしながら、周王の権威を必要とした、
各都市を治める諸侯により、周は洛陽において復興した。
東周である。
ここから各都市を治める諸侯は周王の権威に乗っかりながらも、
独自の行動を起こしていく。
その先鞭を付けたのが、鄭荘公である。
祖父桓公(西周10代厲王の末子)は西周滅亡に殉じる形で死去。
父武公は東周復興の功労者で、卿士(周の首相格のポジション)として執政する。
荘公はそのあとを受け継ぐ。
鄭は当時武公が建国したばかりの新興国でありながら、強国であった。
鄭の領域が交通の要衝であったことも大きい。
ここ鄭はのちの滎陽があるエリアで、
黄河の渡河地点を持っている。
交通の要衝であり、交易の重要拠点であった。
富と文明力を持つ。
それに加えて、桓公、武公の輝かしい経歴は、高い名声をもたらす。
だが、周王が鄭を排除しようと画策したため、
鄭荘公は、周王の権威を無視した行動を起こす。
しかしながら、まだ周王の権威は効果があり、
鄭は周囲の諸侯と敵対し四面楚歌となる。
鄭荘公の覇権は限定的なものに終わる。
●春秋時代の秩序維持の枠組を作った斉の桓公、それを受け継いだ晋の文公とその子孫。
鄭荘公の死後、今度は、
斉の桓公が管仲の補佐を受け、
春秋時代という東周時代前半における秩序維持の手法を確立させる。
斉の桓公は軍事大国である。権力がある。
しかし、権威の掌握に関しては、
周王の権威に依拠する。
周王を推戴しながら、周王の代理人として、この中華の秩序を斉の桓公が維持する。
こうしたやり方を取る。
斉の桓公をリーダーとして周王を盛り立てよう。
これが春秋時代の実権者のとしての在り方となった。
この形を作った斉の桓公は、春秋五覇の一人目とされる。
しかしながら、斉の覇権は桓公のみで失われる。
代わって、
中華の覇権を握ったのは、晋の文公であった。
晋は、周初代武王の子で、二代周王成王の弟が発祥であるが、
これはあてにならない。
晋は晋陽(現在の太原)から南方の汾水周辺を領域とした国である。
晋の文公の祖父、武公まで、
晋国当主の本家と分家で長年争っていた。
分家の武公により、晋国は統一。
武公の子で、文公の父である献公のときに、
国内は、大司空の士蔿(しい。士会の祖父)により、法が整えられ、統治が整備される。
対外関係においては、
強国・西虢を滅ぼす。
西虢は現在の三門峡市にあった。
晋からすればここを押さえたことで、黄河の南岸を押さえたことになり、
ここを経由して、東に洛邑、西に渭水盆地への通路を確保し、移動範囲が格段に広がった。
この虢は、周文王の弟を発祥とする名門で、
周の卿士を代々務めていた。
ここで滅ぼされた虢は西虢といい、
西周が滅んだあと、この西虢と東虢に分かれていた。
献公の死後、後継者争いで晋は再度争乱に見舞われる。
諸国を放浪していた文公が帰国し、君主となり、
晋は再度まとまる。
前632年の城濮の戦いで晋の文公は楚を撃退。
覇者としての地位を確立する。
これ以後、晋が前453年に三晋の韓魏趙により分割されるまで、
中原の覇権国としての地位を保持する。
中原の覇者として、約180年晋は、周王の権威の下、実権を握る。
時には、楚や呉、越などの脅威を受け、劣勢になるも、
中原の覇者は常に晋である。
●晋により、鄴エリアの重要性が復活する。
この180年の間に、
鄴エリアは晋の所有となっている。
春秋戦国時代は、「国」と言われる都市ごとの支配である。
その実態は、諸侯の私有である。
都市ごとの点と点の支配しかでしかない。
現代の国家観とは異なり、国境に囲まれた面での支配ではないことを強調したい。
また、現代で言われるような国家ではなく、例えば、晋や魏、趙といった諸侯の私有を、
現代の我々がわかりやすく認識するために国家と呼んでいるだけである。
本当のところ、現代の概念からすると、国家よりも、私企業に近い。
点と点の支配を結んだ形が、当時の魏とか趙だったりの国であるので、
面で考えると入り組んでいる。
下記の鄴と邯鄲の状況を述べるが、このように近接している都市の支配者が異なるということは、
この時代には大いに在り得るのである。
・鄴
鄴は斉の桓公(在位:前685年-前643年)の時に、城塞が作られたのを端緒とする。
鄴の名を一躍有名にしたのは、魏の西門君(西門豹)である。
大規模な灌漑事業を強い反対を押しのけて推進し、肥沃な鄴を作り上げた。
魏の文侯の時代である。西門君が活躍したのは、魏の文侯が即位した、
前445から前400年の間である。
魏の文侯の父魏駒の代に晋を分割している。
鄴は魏の取り分だったことがこれでわかる。
魏の副都として扱われるほどの要地となった。
この後、鄴は魏と趙の間で奪い合いが起きる。
最終的には、
前239年に魏が趙に譲渡するが、前236年に趙は秦に鄴を奪われる。
・邯鄲
前500年に趙鞅が事実上の私有としている。
趙軮はこれを地歩として、中原に進出する
中原の真ん中に位置する衛を趙鞅の附庸国とした。
子の趙無恤の代に三晋の一つとして、晋を分割して諸侯として自立している。
都は中牟(現在の鶴壁市の西部)に置いた。
邯鄲の南にある安陽のさらに南である。鄴エリアの事実上の復活である。
中牟に都を置いたのは、
上記の趙鞅の代に、中牟の東にある衛国
を、趙鞅の個人的な附庸国としていたことからであった。
中原への進出拠点として、また山西高原へのアクセス拠点として
中牟を含む、
この鄴エリアの重要性が高まった瞬間であった。
趙の領域からすると最も南東端に位置する。
元来の本拠は晋陽(現在の太原)で、
趙無恤の時代になると、晋陽の北方の代を手に入れると、より中牟が東より過ぎることになった。
しかしながら、衛を押さえることと先進地域の中原に位置することから、
ここに都を置くこととなった。
趙無恤の死後、後継者争いが起き、代で即位するなどの事件も起こったため、
前386年に邯鄲に遷都した。敬侯の時である。敬侯は趙軮の玄孫である。
敬侯、成侯、粛侯の三代は、
勃興中の強国、魏と斉としのぎを削りあう。
邯鄲以外は、開発後進都市しか持たない趙は常に劣勢であった。
しかしながら、武霊王の代になると、
胡服騎射という軍事革命がなる。
馬に引かせた戦車戦から、騎兵主体の軍隊に改変する。
山西高原、代など馬の産地を持つ趙は、
馬の補給が潤沢にあり、この革命により一躍軍事大国へと変貌した。
●都市と都市という、点と点を複数保有することから、国家としての体を成していく。
春秋時代を通じて、都市国家の統治手法は発展していく。
それに反比例するように、周王の権威は堕ちていく。
都市国家統治手法がある程度発展したのが、
戦国時代である。
それは官僚制度、
人材登用制度、
徴税制度、
徴兵制度、
戸籍管理方法、
叙勲制度、
国家の運用に関することなので、枚挙に暇がない。
国家統治の手法を発展、開発した各諸侯は、
周王と同じ権威を称することになる。
王と名乗る。
戦国時代が始まる。