歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鄴エリアの隆盛~鄴(邯鄲)エリア⇔山西高原モデルで戦国趙は秦と最後までやりあう。~鄴の歴史⑤ 戦国時代後半

 

●戦国時代は、秦・趙・斉による三つ巴の戦い:

 

※戦国趙における「鄴」エリアは邯鄲のことである。

趙は邯鄲の南に長城という名の防壁を築いていた。

その南の鄴は魏の副都という重要拠点だからである。

 

 

後進国であった秦と趙は、

それぞれ法による統治革命と、

軍事革命をを起こして、強国に昇りつめた。

 

繰り返しになるが、馬の補給が豊富なので、

相対的に強くなる。

 

中原の農耕文明を吸収しきった両国は、

それぞれ法と軍事の部分で相対的に

ほかの王国を凌駕した。

 

馬がなくとも、両国と競ったのが斉である。

 

斉は積極的に様々な人材を登用することで、

多種多様な人材をそろえて、

繁栄を実現する。

採用革命だ。戦国斉の国王・田氏が、

姜斉を打倒してから日が浅いのが大きい。

多文化の受容性が高いのである。

 

文化・文明で強国を作った。

 

秦に最後に滅ぼされたということもあるのだろうが、

斉の子孫は尊重された。

 

異民族の文化をあまり取り入れず、

中華らしい考えだけで強国に昇ったからだ。

中華理想の原点は、この田斉にある。

 

斉の王族の末裔の一人が王莽である。

斉の末裔だから、王莽の魏郡王氏は非常に尊重された。

なお、魏郡は鄴のある郡である。

邯鄲も含むので趙ではないか、と思うが、

鄴を開いたのが魏の西門君(西門豹)であるという事実の方が

大きい。

 

 

戦国時代は、結局のところ、

秦、趙、斉の三つ巴となる。

 

●秦、趙、斉以外の戦国七雄:

 

他の戦国七雄について、先に下記に述べる。

 

●燕:

燕は領域が小さすぎた。

騎馬の補充はでき、楽毅のおかげで、斉を滅亡寸前まで追い込んだが。

領域が小さいのが大きい。

南に伸ばす領域があるように見えるが、ここは黄河の流域で、

流域が手を放したホースのようにピンピン流路が変わる。

 

当時の技術では定住できないし、

農耕もできない。

つまり不毛の地であったということだ。

 

北は山である。

中原へのアクセスは南西に太行山脈沿い下がっていくほかないが、

そこには趙の本拠邯鄲がある。

現代よりもここの海岸線は内陸部にあり、より狭小な平野部しかなかった。

 

 

地形的に南方を趙に抑えられてしまうと、

燕はどうしても趙に依存せざるを得ない。

技術含めた文化・文明は趙経由に依存してしまう。

 

燕は伸びしろが少ないのである。

 

●楚:

楚は、

諸侯の独立性が強く、

王に集権ができなかった。

 

呉起により、秦に近い革命が起きようとしていたが、

悼王の死去により頓挫、呉起は殺された。

 

楚は王に中央集権できなかった。

春秋そのままで発展できなかった。

楚は南方の文化を持って、国家としてのまとまりは持ち得ていた。

シャーマニズムがあり、ほかの中華の王国とは異文化であった。

異民族と言ってもいい。

農業も焼畑がメインであった。

 

水が多く、樹木が多いからできることだが、

だからこそ生産向上がいまいちであった。

 

そんな楚は、秦の刈り取り場となる。

 

●韓:

 

韓は、中華の先進地域であったものの、

領域が狭く、さらに各王国と境を接しているので、

どこにも勢力を伸ばすことができなくなった。

早々にじり貧となる。

 

●魏:

 

魏は、当初は晋の主要エリアを継承したので、

文化・文明・軍事力ともに各国を凌駕したが、

それが、ピークであった。

 

魏の君主がそれ以上の展望を持ち得なかった。

様々な人材が先進国魏を訪れるも、

初期を除けばほぼ抱えきれなかった。

 

全てスルーし、他国で活躍することになる。

 

商鞅、范雎、孫臏など。

 

魏は先進国ゆえに、

異文化の受容性が低かった。