●戦国時代は、秦・趙・斉による三つ巴の戦い:
※戦国趙における「鄴」エリアは邯鄲のことである。
趙は邯鄲の南に長城という名の防壁を築いていた。
その南の鄴は魏の副都という重要拠点だからである。
後進国であった秦と趙は、
それぞれ法による統治革命と、
軍事革命をを起こして、強国に昇りつめた。
繰り返しになるが、馬の補給が豊富なので、
相対的に強くなる。
中原の農耕文明を吸収しきった両国は、
それぞれ法と軍事の部分で相対的に
ほかの王国を凌駕した。
馬がなくとも、両国と競ったのが斉である。
斉は積極的に様々な人材を登用することで、
多種多様な人材をそろえて、
繁栄を実現する。
採用革命だ。戦国斉の国王・田氏が、
姜斉を打倒してから日が浅いのが大きい。
多文化の受容性が高いのである。
文化・文明で強国を作った。
秦に最後に滅ぼされたということもあるのだろうが、
斉の子孫は尊重された。
異民族の文化をあまり取り入れず、
中華らしい考えだけで強国に昇ったからだ。
中華理想の原点は、この田斉にある。
斉の王族の末裔の一人が王莽である。
斉の末裔だから、王莽の魏郡王氏は非常に尊重された。
なお、魏郡は鄴のある郡である。
邯鄲も含むので趙ではないか、と思うが、
鄴を開いたのが魏の西門君(西門豹)であるという事実の方が
大きい。
戦国時代は、結局のところ、
秦、趙、斉の三つ巴となる。
●秦、趙、斉以外の戦国七雄:
他の戦国七雄について、先に下記に述べる。
●燕:
燕は領域が小さすぎた。
騎馬の補充はでき、楽毅のおかげで、斉を滅亡寸前まで追い込んだが。
領域が小さいのが大きい。
南に伸ばす領域があるように見えるが、ここは黄河の流域で、
流域が手を放したホースのようにピンピン流路が変わる。
当時の技術では定住できないし、
農耕もできない。
つまり不毛の地であったということだ。
北は山である。
中原へのアクセスは南西に太行山脈沿い下がっていくほかないが、
そこには趙の本拠邯鄲がある。
現代よりもここの海岸線は内陸部にあり、より狭小な平野部しかなかった。
地形的に南方を趙に抑えられてしまうと、
燕はどうしても趙に依存せざるを得ない。
技術含めた文化・文明は趙経由に依存してしまう。
燕は伸びしろが少ないのである。
●楚:
楚は、
諸侯の独立性が強く、
王に集権ができなかった。
呉起により、秦に近い革命が起きようとしていたが、
悼王の死去により頓挫、呉起は殺された。
楚は王に中央集権できなかった。
春秋そのままで発展できなかった。
楚は南方の文化を持って、国家としてのまとまりは持ち得ていた。
シャーマニズムがあり、ほかの中華の王国とは異文化であった。
異民族と言ってもいい。
農業も焼畑がメインであった。
水が多く、樹木が多いからできることだが、
だからこそ生産向上がいまいちであった。
そんな楚は、秦の刈り取り場となる。
●韓:
韓は、中華の先進地域であったものの、
領域が狭く、さらに各王国と境を接しているので、
どこにも勢力を伸ばすことができなくなった。
早々にじり貧となる。
●魏:
魏は、当初は晋の主要エリアを継承したので、
文化・文明・軍事力ともに各国を凌駕したが、
それが、ピークであった。
魏の君主がそれ以上の展望を持ち得なかった。
様々な人材が先進国魏を訪れるも、
初期を除けばほぼ抱えきれなかった。
全てスルーし、他国で活躍することになる。
商鞅、范雎、孫臏など。
魏は先進国ゆえに、
異文化の受容性が低かった。