歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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鄴エリア 中華王朝の帝国化が鄴エリアの内地化を推進する ~鄴の歴史⑥ 秦から後漢まで

 

 

 

 

●秦の勝利:

 

秦、趙、斉の三つ巴の戦いは、

秦の勝利に終わる。

 

高い文化、文明、

騎馬、

法制度、

優秀な人材、

肥沃な大地

 

これが全て揃ったのが

秦だった。

 

一番の違いが、法制度による統治なので、

これがピックアップされるが、ほかの要素もこの時代の特徴である。

 

秦は、中華を支配した。

 

当然秦のやり方で、各地を統治した。

 

元々秦に何の親近感もない、秦からの遠隔地では、

それになじまない者が多数出てくる。

 

流民と化すもの、

反乱を起こすもの、

 

秦の厳格な法治制度は、

他エリアではなじまなかった。

 

陳勝呉広の乱や劉邦の反乱は、

おおざっぱにいって徐州周辺で起きている。

 

斉、楚、宋などの統治を受けたエリアであった。

 

項羽は当然楚である。

楚の統治は秦に比べればおおざっぱであった。

呉起の改革が頓挫したためである。

今風に言うと、中央集権が失敗し、

地方分権のままであった。

 

 

秦の自壊もあるが、

項羽と劉邦により秦は崩壊した。

 

項羽のやり方は、周王朝に近い。

各地に諸侯を封じて、楚の義帝を権威とする。

 

しかしながら、楚の義帝に

権威はなく、

あるのは項羽の軍事力だけであった。

 

軍事力に屈服した各諸侯は、

やはり軍事力でなびく。

 

漢中という流刑地に閉じ込められた劉邦は、

項羽に反抗。

項羽の荒々しさは現代の我々に鮮烈な印象を

与えるが、本当の無頼漢は劉邦である。

項羽は楚の名門項氏の一人であり、

貴公子である。

劉邦の方が本当は荒々しいのである。

項羽により、劉邦は漢中に押し込まれ、

ふざけるなということだ。

 

 

劉邦は、策略「暗渡陳倉」で秦嶺山脈を越え、

何とか渭水盆地を押さえ、

戦国秦と同じ立ち位置を作る。

 

この構図を作った劉邦は、

何度となく、洛陽以東の中原で項羽に負けても、

渭水盆地の補給は手厚いので復活が出来る。

 

渭水盆地、漢中は完全に劉邦のもので、

平和である。後背地で平和に

生産が行えるのは非常に大きい。

 

 

一方項羽は中原を押さえてはいるものの、

確固たる本拠地がない。

補給基地となる安定した後背地もない。

 

さすがの項羽も、

何度となく、戦えば、兵も疲れる。

物資も不足していく。

 

そうして、

何となく追い詰められていった項羽は、

垓下の戦いで劉邦に負け、

敗死する。

 

こうして生まれたのが、

漢である。

 

 

 

●漢による中華統一:

 

渭水盆地と中原の半分は、中央集権とする。

しかしその周辺は、

劉邦の親戚を封じて、

治めさせる。

 

秦(中央集権)と周(地方分権)の統治手法を併用したわけだ。

 

周辺エリアに関しては、

支配しきれなかったという背景もある。

 

この「支配しきれなかった」というのは、

中央集権という意味での支配で、

周の諸侯のようには支配できていた。

 

 

50年経って、

漢皇帝が直轄中央集権支配していたエリアは、

相対的に発展した。

 

物資が有り余るようになった。

 

一方周辺国はそこまでの変化はない。

 

当然皇帝としては、これら諸侯が自身皇帝を崇拝しない、

言うことを聞かないことを疎ましく思い始める。

 

紀元前154年呉楚七国の乱で、

漢景帝が各諸侯を取り潰し、

完全な中華統一と実現する。

 

そうして、

景帝は息子の武帝にこの充実した帝国を引き継ぐことになるのである。

 

この後、漢が帝国として安定すると、

鄴エリアは内地としての地位に留まる。

目立つ存在ではなくなった。

 

再度鄴エリアの重要性が高まるのは、

後漢末期の乱世において、

袁紹、曹操が本拠地を構えるタイミングである。

 

特に曹操、魏においては軍事力の源泉となる。