歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

v

春秋晋国の正卿一覧

 

 

春秋時代の晋国独自の制度、正卿制度について述べたい。

 

f:id:kazutom925:20170829142948p:image

 

 

晋国中興の祖とも言える、春秋五覇の一人晋文公の即位の経緯から、

晋は君主の力が著しく弱く、各諸侯の力が非常に強かった。

事実上の寡頭制とも言える体制で、各諸侯の筆頭大臣、

すなわち正卿が事実上の最高権力者であった。

晋は晋公を中心とした連合国に近く、それが強みでもあり弱みでもあった。

 

重耳、前636年に晋に帰国、晋公となる(文公)。

執政は孤偃。

三軍を創設したのは前634年。
孤偃は前629年に死去。趙衰が執政となる。

趙衰は死去する前622年まで執政を務める。
 

三軍設立時には正卿=中軍の将ではなかった。

正卿はおらず、中軍の将がいるのみであった。

趙盾が孤氏との政争で勝利。大きな権力を背景に正卿=中軍の将とした。

 

 

 

 

中軍の将一覧


「中軍の将」ーーーーーーーーー
郤穀     前634-633年
先軫     前633-627年
先且居 前627-622年

孤射姑 前621-621年
ーーーーーーーーーーーーーーー 

ここまでは、晋文公の外戚、孤偃(前629年死去)と趙衰(前622年死去)
が存命だったため、事実上の宰相は両名であった。
 
前621年における政変「夷の蒐(夷における閲兵式の意味)」
前622年の四卿死去に伴う、人事を巡る政争。
最も大きなものは、孤射姑が一度は中軍の将となったものの、
陽処父の容喙により、趙盾が中軍の将になった。これが襄公の末年のことである。
当然、孤射姑と趙盾の間にはおおきなしこりが残る。
同年8月に襄公の急死による後継者問題で両者は対立。
孤射姑は陽処父を殺して晋を出奔した。

(のちに賈氏を名乗り、安定賈氏の祖となる。

三国志で有名な賈詡の祖とされる。)
 


晋の正卿一覧。その数は十五人。

 

「事実上の中軍の将=正卿(宰相)制の始まり」ーーーーーーーーーーー
趙盾  前621年〜前601年
郤缺        〜前597年
荀林父 〜前593年(中行氏の祖)
士会     〜前591年
郤克     〜前587年
欒書     〜前573年
韓厥     〜前566年
智罃     〜前560年
中行偃 〜前554年
士匄       〜前548年
趙武    〜前541年
韓起      〜前514年
魏舒      〜前509年
士鞅      〜前501年
趙鞅      〜前476年

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

趙氏   3名

郤氏   2名

中行氏2名

士氏(范氏)3名

欒氏1名

韓氏2名

智氏1名

魏氏1名

である。趙氏と范氏が3名の正卿を輩出している。

だが、特に両族の勢力が強かったわけではないので、

正卿の輩出人数は勢力拡大との関係性は見受けられない。


前497年に趙鞅をターゲットに中行氏(荀氏)・范氏(士氏)が
内乱を起こす。
趙鞅は智・韓・魏と連合、 中行氏(荀氏)・范氏(士氏)を打倒し、
追放する。朝歌で反抗を続けるも敗れ、前490年に斉に亡命、両氏は滅亡する。

この後は、四卿(智・韓・魏・趙の争い)

前453年の晋陽の戦いで、
韓魏趙が生き残る。
 
前403年に正式に韓魏趙がそれぞれ諸侯として周王に承認される。