歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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晋書の役割=劉淵が皇帝を名乗った経緯から探る=

 

現代中国は政治的な国とよく言われる。

それは中国史において、政治的な対処が明確にしているからではないかと

私は考える。

 

王朝が全く変わる、易姓革命。

それにより、前代が否定されるが、この王朝も、

次代の王朝により否定される。

そのため、比較検討することにより実態が見えやすい。

この否定作業こそが政治である。

政治的配慮のため、連綿たる事実であるはずの歴史が、

伝説化するのである。

 

初めは連綿たる事実であった、「歴史」。

しかし、この「歴史」はいつからか政治的配慮を目的とした「伝説」となった。

中国史において、その始まりは唐太宗の時代に杜如晦を筆頭に編纂された

「晋書」である。

 

晋書の位置付けと、劉淵の実態とを検討する

晋書とは何なのかを説明したい。

 

●晋書成立の背景

 

 

初めての中華王朝の手による正史「晋書」。
これは、間違いが非常に多いとされている。

私は、それはこの晋書が急造であった為と考える。
何故急造だったかというと、
胡漢融合を成し遂げた唐太宗が、
中華寄りのスタンスを取ることを決定し、
自分自身の正統性を主張するために作ったものだからである。
太宗晩年に、杜如晦に指示して作らせた。

何故唐の太宗までに至ったか、その正統性とその必然性を
明らかにするために必要だったのだ。
ディテールの間違い云々はどうでもよかったのだ。

 

●晋書の役割

 

 

さて、唐の太宗の正統性主張のための
書物が晋書である。

唐の太宗は鮮卑族である。

当然中華からすれば異民族であるが、
それは伏せられている。
しかし当時は周知の事実であり、
漢化した鮮卑であることは当時は知られていた。

この漢化した鮮卑が唯一絶対の存在、中華皇帝である必然を
説明するには、
鮮卑が異民族ではなくなった理由が必要である。

いや、鮮卑のみならず、
唐が受け継いでいる、北朝の異民族王朝の正統性を
説明しなくてはならない。

伝統的な中華王朝は南朝である。
東晋であり、西晋である。

南朝の貴族たち、北朝の漢人貴族は南朝が正統と密かに思い続けていたからだ。

彼らは唐室を心の底では馬鹿にしていた。

中華王朝として存在する唐は、
それら晋、南朝に配慮しながら、
北朝の正統性にも配慮するという難解な作業をしなくてはならなかった。

史学者の手に負える内容ではない。

それで晋書編纂は謀臣で政治家である房玄齢の手によることになる。

 

 

●唐が受け継いだ北朝の発端

 

 

唐が受け継いで来た北朝の発端は、
匈奴の劉淵が作った漢である。

漢化した匈奴の劉淵がやむなく立てざるを得なかったのが匈奴の漢である。

この国号であるが、
晋書によれば、
匈奴は漢皇帝と兄弟だから漢と名乗るのだとされている。

どちらが兄なのか弟なのかわからないが、
何れにしても匈奴が対等だからとして漢を名乗ったという主張なのはわかる。

しかし、これはおかしいのだ。

何故なら、劉淵が漢を名乗った304年10月の時点では、
彼は「王」だからである。

同格を主張したいのなら、この時点で皇帝にならなくてはならない。
しかし劉淵が皇帝になるのは308年である。

私は、これは晋書がこじつけた理由だと主張する。
唐の太宗の正統性を主張するためにこの歴史という名の伝説を
付け加えた。劉淵は初めから独立したくて独立したのではない。
やむなく独立したのである。
しかし、その事実を唐太宗の正統性主張のために
歪められているのである。

劉淵が当初から異民族の匈奴は漢と同格だと主張していたとすれば、
本来の中華王朝の正統である、晋や南朝と同格になる。

唐太宗は実態はこの匈奴漢に由来する北朝を受け継ぐ。


北朝の正統性を主張するという意図のもと、このエピソードを加えた。

 

これはこじつけである。

 

劉淵は純粋に歴史の慣例通り、
自身匈奴族が封じられた地の名前を名乗っただけである。

匈奴は本来の生息地から漢の指示のもと、中華内地に移って来た。
そこは漢土である。匈奴、厳密に言えば劉淵の祖先、南匈奴は、
漢の地に封じられたのである。

それで漢王を名乗ったに過ぎない。

 

隋が成立するまで、南朝は皇帝、北朝はただ「主」とするのみで、

隋唐に至るまでの正統性主張というのは非常に困難があった。

この困難を乗り越えるために、劉淵の皇帝即位が

僭称ではなく、正統性のあるものにこじつけざるを得なかったのである。

 

劉淵の実態は、

漢の教養を積んだ劉淵らしい対処であった。
本当に匈奴のオリジナリティを持ち続けて、

独立したかったのであれば、
単于として名乗るだけでいいのだ。

わざわざ漢の習慣に合わせる必要はない。

漢王というのは、劉淵が漢文明の人物であることを

如実に表している。
ここまでは、まだ存在する西晋皇帝の下にあるということである。

 

 

●劉淵が漢皇帝と同格でかつ漢皇帝を継承するとした時期

 

 

劉淵が漢皇帝と同格で、その立場を継ぐとしたのは、
309年である。

それは、平陽に三祖五宗として、
前漢、後漢、蜀漢の皇帝を祀った瞬間である。

劉淵が皇帝に即位した翌309年劉淵は都を平陽に移しているが、
劉淵が、
三祖五宗として祀るのは
平陽に都を定めた後である。

 

その前には都をポンポン移しすぎで祀ることなどできない。
宗廟を作る余裕もなければ移す余裕もない。

 

ここで、劉淵は前漢から後漢、蜀漢という劉氏のみが皇帝になれるという
既に伝説と化していたロジックを持ち出した。

 

(これはしかし唐の後付けかもしれない。ただ劉淵ならばできたのかもしれない。

ここでは劉淵の発案とする。異民族は皇帝になれないというロジックを

劉淵は知っていたはずだから、

自分自身に対してもロジックが必要だったはずだからだ。)

 

劉氏のみ皇帝論により西晋の正統性主張に対抗するイデオロギーとしたのである。

これを考えついたのは、当時の匈奴陣営において、
劉淵ぐらいしかいなかったであろう。

堂々と異民族は皇帝にはなれないと、各漢人貴族が思い込んでいた
この時代。
劉琨などは強大な軍事力を持つ石勒に堂々と悪びれも怯えることもなく、
皇帝に従いなさいと懇々と説得する、ある意味中華思想が
行くところまで行ったこの時代に、劉淵は対抗する
イデオロギーを出して来たのだ。

 

確かに西晋は劉氏を保護して来たが、
漢の正統性などは徹底的に排除して来たはずのこの時代である。

西晋のみならず、その前の曹魏は徹底していた。
80年以上漢の残り香は消し去られて来た。

 

にも関わらず、このロジックを出して来れるということは、
相当に劉淵が漢の教養を積んできたということになる。

 

ここで初めて異民族の匈奴は皇帝として立った。
西晋皇帝に対する完全な敵対行為である。
何故なら、皇帝という存在はたった一人しか許されないのである。

西晋皇帝の正統性に対抗するために、
元々ここで漢の兄弟である匈奴というロジックを持ち出してきた。

劉淵が持ち出したのか、

晋書成立の唐代に初めて出てきたロジックなのかはわからないが、
いずれにしても初めから劉淵が匈奴は漢皇帝と兄弟だと
言っていたわけではないと言える。

 

このロジックは
異民族は皇帝にはなれないという劉淵の反論になる。

さらにこのロジックは、
周知の事実である唐太宗が鮮卑という異民族であり、
唐の太宗という異民族が何故皇帝なのかに対する答えともなる。

 

劉淵の存在は、唐の太宗と事実上イコールなのである。

 

近現代の中国でも、

現世の政治家を批判するために、歴史上の人物を批判するという

やり方は頻繁に使われる。

 

その最初の事例が、この晋書なのである。