歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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匈奴の冒頓単于に始まる「人さらい」=異民族が「漢人」を欲しがる理由=

西晋末期から五胡十六国時代にかけて、
異民族にとって、

人間は家畜や穀物とほぼ同列の資源、物資として扱われていることを
歴史上から私は説明している。

 

異民族が漢文明に染まりながらも、異民族の風習が中国を席巻するのが、
この時代である。


石勒はとにかく人をさらって、本拠の襄国に連れ去ってきた。
それは異民族の風習なので中華からすれば迷惑極まりない。
我々現代の日本人から見ても、単なる野蛮な行為としか見えない。
だが、これは中華の北方異民族の成功パターンなのである。

 

 

 

この説明をもう少し考古学よりから説明している書籍があったので、
紹介したい。

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)

 


●漢土から見れば、匈奴の奥地である北方にて農耕が行われていた。

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)から引用。
p299「 匈奴時代に実際に北方で農耕が行われていた
匈奴時代に属すると思われる集落址は現在まで約20ヶ所発見」
最もよく調査されているのが、
ロシア領のブリャーチヤ共和国のイヴォルガ遺跡」

p301
「出土品
ほとんどの土器が漢代中国の灰陶とそっくり
鋤、鎌などの鉄製農具も中国の物に類似
稚拙であるが漢字の刻まれた砥石が発見」(引用終わり)

 

1950年代の発掘調査、中国人がここの住民とソ連の研究者は主張していた。
だが、
その後の中ソ対立でその説を変える。
ソ連領内に中国人が住んでいたとなれば、民族自決や領土主張の根拠ともなる。
いつの時代のこの発想は同じで、
歴史上だけの話ではないことがわかる。
正統性の考え方は、漢の武帝や唐の太宗だけのものではない。
歴史はこうして勝手に「伝説」として書き換えられる。

匈奴内地において、
中国人が農耕を行なっていた集落がこのように見つかっている。


●先駆的な、匈奴単于政権よる屯田

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)から引用。
p305「この集落は単于政権が明確な意図を持って造営したものだろう。
これら集落は北方に偏っている。
理由としては、
漢人の南方への逃亡を防ぐため、
モンゴル高原では北部の方が降水量が多くて南部よりも農耕に適している、
北方の丁零に対する軍事拠点としての役割も果たしていたであろう」(引用終わり)

 

となれば、これは屯田に似ていると林氏はしている。
最も早い中華の屯田は武定期であるが、
匈奴では冒頓単于の時から漢人略取を行なっており、
彼らが農耕に使役されたとするならば、
屯田は匈奴の方が古いということになる。

 


●匈奴の略奪の対象は、人間である。

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)から引用。

p297
「匈奴の略奪の対象が何であったかを思い起こしてほしい。
匈奴が金銀財宝を奪っていったとか、絹織物や穀物を奪っていったなどというような
記事は、「史記」にも「漢書」にもまったく登場しない。
史料に出てくる略奪の対象は、人間と家畜だけである。
穀物などはあたり前すぎて記さなかったのだということも考えられる。
しかしとにかく史料に従うならば、
それは人間と家畜だけなのである。」(引用終わり)


中華において、
定住民を集団で強制移動させることを
徙民と呼ぶ。
その後の
p306「鮮卑、柔然、突厥などの遊牧国家や五胡十六国時代の北族系王朝や北魏、
さらには遼など、
遊牧民出身の王朝によく見られる。
匈奴の例は、それらのさきがけとみなすことができる。」

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)から引用)

 

前200年の白登山の戦いで
冒頓単于は高祖劉邦に勝ったが、
漢土に侵攻することは大してやめなかった。

この戦いの結果、冒頓単于は勝者として
漢と講和条約を結び、物資を定期的に得られるようになってもである。

 

それは、国力増強のために、漢人が必要だったからだ。
農耕を始め、衣服などの生産活動を行うためには漢人が必要であった。

匈奴の強みは、有り余った軍事力である。
遊牧という生産活動のもたらす騎兵という軍事力を使って、
漢人を拉致し、自領土の内地で生産活動に充てる。

これが匈奴の国家繁栄のための戦略であった。

 


●遊牧だけでは、国力を高めることはできない。

 

 

なぜならば、
遊牧という生産形態が、
生産性、安定性の面で不利だからである。

 

スキタイと匈奴 遊牧の文明 (興亡の世界史)から引用。

p294「遊牧という生産形態が、定住的な牧場を持つ
牧畜に比べて生産性が低く、
また気象条件に左右されやすい不安定な経済であったことは、
広く認めらている事実である。
従って、
遊牧国家が経済的に発展するためには、

遊牧以外の生産活動を展開せざるを得ない。」(引用終わり)

遊牧に、
農耕と交易を加える。

それが匈奴の強みを活かした国家戦略であった。

 

遊牧は生産活動としては相対的に非力であるが、
軍事力の涵養にはふさわしい。

その有り余った軍事力で、漢土を攻める。
漢土を攻めた結果、漢人を連れて帰る。

そうして、匈奴内地で、
農耕活動、生産活動を行わせた。

衣服や住居を作ることも匈奴には苦手だったに違いない。

建物が作れると物資が蓄積できる。

これは交易品となる。

 

この話をすると、
日本の焼物を想起させる。

日本でも豊臣秀吉の朝鮮出兵の結果、
朝鮮から各大名が陶工を連れ帰ってきている。

彼ら朝鮮陶工が生み出したのが、
伊万里焼や、薩摩焼(沈寿官という朝鮮人による)である。
それぞれ、鍋島直茂、島津義弘という戦国時代第一線級の名将たちが
連れ去ってきた。

伊万里焼も薩摩焼(私も白薩摩を持っている)も現代に至るまで、
高い評価を得ている交易品であることを考えると、
匈奴のやりたかったことが生々しく実感できる。

 

 中華や朝鮮からすると、

日本は古の匈奴と変わらない、大変な脅威であることはこれだけでもわかる。