歴史マニアのための魏晋南北朝史~歴史の真髄〜

三国時代から西晋、八王の乱、永嘉の乱、そして東晋と五胡の時代へ。

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曹操が始めた兵戸制 魏晋南北朝時代にかけての変遷と比較について

 


●曹操の兵戸制から見える一民衆の悲哀


曹操の兵戸制を知ることで、
人が物のように扱われた事跡を客観的に理解ができる。


特に中国史は、王朝の変転が多いので、
客観的に見えやすい。比較できるからだ。

史記の描く歴史と、資治通鑑が描く歴史は異なる。

比較すると見えてくるものがある。


時代が時代なら、自分自身も
物のように扱われる可能性があることを知る。

 


姥捨山どころではなく、
健常な壮年の男性もこのように物だ。


連れ去られたらどれだけ嫌でも、
戦争に行き続けなくてはならない。
どれだけ将来を悲観しようとも、
家族のためにも戦争に行かなくてはならない。


当然逃亡してもいけない。
家族に災いが降りかかる。

 

曹操の英雄譚は面白い。

一方で名もない、
一民衆としての人生を歴史から知ることも面白い。


現代がどれほど自由なのかを実感するとともに、
実は人を物のように扱うという考えがまだまだ
現代にも生きていることを感じざるを得ない。

 


時代がどれだけ変わろうとも、
本当の人間社会は弱肉強食で、
自分の人生には自分しか責任が持てないことを感慨深く知る。

 

 

 

 

●三国時代の呉と蜀漢における兵役とは

 


呉は世兵制で、各豪族が兵を各領地にて兵を養い、
皇帝の指示に従って兵を動かすというやり方を持つ。
この兵は各豪族で世襲される。
各豪族が兵を直接掌握することになり、
孫権存命時はまだまとまりがあったが、孫権晩年の二宮の乱に始まる
派閥争いのため、バラバラになっていった。

 


漢(蜀漢)については、記述が少なく実態はわかりにくい。
しかし、諸葛亮が漢中において兵を屯田させていること、
丞相府として開府していることから、
丞相府統括としての隋唐におけるような府兵制となっていたのではないかと思われる。
諸葛亮の蜀漢における絶対権力、
軍事上の機動性を考えると、その可能性が高い。

劉備の死後、全ての軍隊が諸葛亮の統括にしか見えないのはそのためである。

 

呉に関しては、
様々な将軍の意向が目立つのは世兵制によるためとも見える。
それぞれがそれぞれの将軍が世襲していれば、
それは室町幕府における各守護大名と同じである。
守護大名の名前がクローズアップされるのと同じだ。

 

 

●実は平和主義の中華王朝、兵戸制を嫌う。


後に、兵戸は蔑視され、それで兵戸制は崩壊した。
中華の王朝は我々がイメージするよりも、実はずっと平和的である。
武を蔑む傾向がある。


そもそも中華の成り立ちは、交易である。

交易は平和、友好関係が前提だからである。


夏や商は、洛陽という四方の交易の地を押さえ、栄華を誇ってきた。
交易をすれば仲間であり、
この交易を脅かす者は蛮夷である。
それは四夷であり、後の中華思想に影響を与えていく。
本来の中華は平和的商業国家を志向。


そういう意味では、我々日本とは実は異なる。
各王朝が中華の色合いを強めれば強めるほど、
文を尊び、武を蔑む傾向が本来の中華である。


その中で兵戸制は崩壊した。
南朝では、貴族化が段階的に進んでいた劉宋に崩壊。
北朝では、もう少し長く兵戸制は維持されるが、
北魏孝文帝の急速な漢化政策をきっかけに、
事実上兵戸制は崩壊。

 

●兵戸(鎮)出身の高歓、宇文泰の反乱が北魏を滅ぼす。


北魏を滅ぼす六鎮の乱は兵戸の乱のことである。
鎮とは兵戸のことである。


兵戸、北魏においては鎮という。
鎮の人間は、

孝文帝以前は非常に地位が高かったのに、漢化政策で没落した。
武が蔑視されたことが最も大きい。


平城から洛陽への遷都で六鎮は捨て置かれたという説明が多いが、
依然として北方の柔然の脅威はあるのであり、
この政策転換、思想転換の方が大きい。
六鎮の乱は北魏の東西分裂を招く。


東魏の高氏、
西魏の宇文氏というそれぞれの最高権力者は、
それぞれ兵戸、鎮の出身(具体的にはこの六鎮の出身)である。

 

●宇文泰の府兵制。有力豪族に軍隊を組織させ、制度化する。

 

西魏宇文氏の宇文泰は、
圧倒的な劣勢であった。
それは、北魏の東方領域の方が先進エリアであったこともあり、
そもそも兵卒が少ない。さらに、
軍事的な精鋭が東魏に配置されていたことが大きい。
そこで、宇文泰が、
府兵制の起源となる政策を始めた。


534年以降に、
東魏エリアには兵戸=鎮がないので、
各地の豪族にそれぞれ兵を集めさせた。
事実上の徴兵制である。


ある程度集めると、
550年ごろまでに、
府に統括させる。
これは開府できる権限のある将軍が開いた府に属させるということである。

 

この開府という制度も長い魏晋南北朝期において変転してきた。

それを宇文泰は活用した。


三国時代であれば、
司馬師・司馬昭が開いた大将軍府に属させるということである。

蜀漢であれば諸葛亮の丞相府に属するという意味である。

ある程度以上の将軍職は開府の権限を持つ。

また開府儀同三司というのが与えられると、開府できる。


この府をそれぞれ統括するのが、
八柱国・十二将軍である。


全体を統括するのは当然丞相宇文泰である。

兵戸、鎮が今度は府という単位に変わり、
それぞれ八柱国・十二将軍が管理。
強力な軍権を掌握することになる。
後に十二将軍から隋の楊氏、
八柱国から唐の李氏が出たのはよく知られることである。
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